その裏寂れたお堂の中は、日差しが届かぬせいか薄暗く、底冷えがする。
きっとこれから行く場所もこんな風に底冷えがするような地なのだろう。
そんな場所に、彼女を連れてはいけなかった。
「一緒に行くよ」
けれど彼女は、そう言い続けるのだ。
「よせよ。苦労するだけだぞ」
「自分だって苦労しに行くくせに」
「親父に行けと言われたからだ」
「でも、最後は自分で決めたんでしょ」
あんたはそういう奴じゃないとケラケラと彼女は笑う。
「それに、あたしが行かなかったら誰があの吉川に嫁に来てくれるんだい。女を
見たらすぐに押し倒そうとするほどの女好きなあんたが、女なしで我慢できるの?
それとも側女を持つのかい?」
「女好きじゃねぇよ。俺が、押し倒す女はお前だけだ。側女なんているかよ」
親父じゃあるまいしと小さい声でぶつくさ言っていると、彼女が近づいてきて、
ぎゅっと抱きしめてきた。
「吉川はここより寒いんだろ。1人なら寒いだろうけど、2人ならきっとあったか
いよ」
「きぃ」
「あたしが、あっためてあげるからさ」
彼女は優しい手つきで頭を撫でてくる。
その手つきは、2年前に死んだ母親を思い起こさせた。
「2人で吉川を盛り立てていこうよ。2人一緒なら大丈夫だよ」
ようやく気づいた。彼女はとっくに覚悟を決めていたのだ。
覚悟が足りなかったのは自分の方だった。
「きぃ」
彼女の腕から離れると今度は自分が、彼女をその覚悟ごと抱きしめた。
「寒いときは言えよ、俺が暖めてやる」
「ありがとね。元春」
彼女の腕がそっと自分の背中に回されるのがわかる。
「あとは、お父ちゃんの説得だね。熊より恐い熊谷の大将さ。どう言おうか」
「熊の親父殿には、言葉より態度で示すのが一番だろ。熊の親子は仲がいいんだぜ」
そのまま彼女を押し倒した。
外の柔らかな日差しが地に住まう者達の寒さに震えた心を温かくさせ、咲き乱れ
る桜の花びらが季節の変わり目を祝福し、芽吹きはじめた緑が新たな季節の始まり
を告げていた頃の出来事だった。
***********
「幸鶴様は、今日も元気ね」
「あう~う~~っ」
あゆが挨拶すると、幸鶴丸が挨拶を返す。
この間まで城中に漂っていた暗さは消え去り、落ち着きを取り戻した郡山城では、
子供達の泣き声は消えていた。
「あゆひめしゃま」
散歩に行っていると聞いたうらら姫が乳母と一緒にやってきた。手には外で拾っ
てきたらしい枝を持っている。
「あげましゅ」
「え~。くれるの?ありがとうなの」
うららがくれた枝をあゆはうれしそうに受け取るが、うららの乳母は申し訳なさ
そうにする。
「うらら様がどうしてもあゆ姫様にあげたいと。お花の方がいいと申したのですが」
「そんなことないの。いい感じの枝なのよ」
あゆも高山城を走り回っていると時に、いい感じの枝を見つけると、兄に見せよ
うと拾ってくるときがあり、それを城に仕える者の子供に羨ましがられたことが
あった。
「いっぱしのおのこなら自慢できる逸品なのよ」
それを聞いた古くから城に仕える侍女が、
「そうでございますね。鶴寿丸様なら大喜びする枝振りですわ」
「鶴寿丸殿?幸鶴丸様じゃなくて」
あゆは幸鶴丸にこの枝好き~?と目の前でもらった枝を振ってみせるが、幸鶴丸
はまだ興味が無いらしく、きょとんとしている。
「鶴寿丸様は、吉川家のご嫡男で幸鶴丸様とうらら姫様の従兄弟にあられる方です。
うらら姫様より少し年上で、ちょうど枝に興味を持つお年頃になられたはずですわ」
「そうなの。うらら姫様はお会いしたことあるの?」
とあゆが尋ねると、うらら姫はふるふると首を横に振る。
「残念ですわね。鶴寿丸様は、尾崎局様が嫁いでこられる少し前にご両親と共に
吉川に移られましたので、お会いになる機会はございませんでした。鶴寿丸様も
このお城で生まれたのでございますよ」
「あれ?吉川のお城は日山城と隆元お兄様にお聞きしたのよ」
嫡男なら吉川の城で生まれているのが通常だが、
「鶴寿丸様のお父上の吉川元春様は、元就様の次男で鶴寿丸様が生まれるより前に
吉川家に養子入りすることが決まっていたのですが、いろいろございまして、
ずっとこの城に留まられて、奥方様との婚儀もこの城で行ったのでございますよ」
「そうなの」
養子入りと聞いて、吉川家も大変なことがあったんだろうなとあゆは感づく。
「元春お兄様には、隆景様のことをいろいろ聞いてみたいと思ってるんだけど、
どんな人なの?」
「元春様は、武勇優れる方です。なにせわずか10歳で初陣を飾られましたから
ね。元春様の母君の祖父は、鬼吉川と呼ばれたほどの武将なのですが、元春様は
その再来を謳われたのでございますよ」
「鬼~~?、やだ、恐い人なの!?」
どうしよう、うらら姫様とあゆが困った顔を見せると、うららも釣られて怖がる。
「あらあら、怖がらせてしまい申し訳ございません。元春様が鬼と呼ばれるのは、
戦場(いくさば)でのお話。普段は、気のいい親切な御方ですよ」
隆景様のことも尋ねれば答えてくれると、嘘をついてなさそうな顔で話す侍女に、
あゆとうらら姫はほっとする。
「あゆ姫は、こちらですか?」
縁側から尾崎局が現れる
「尾崎のお姉様、どうなさったの?」
「あゆ姫に、小早川から家臣の方が来られていますよ」
尾崎局が言う家臣とは、
「椋梨!」
「あゆ姫様、お元気そうで何よりです」
なんと小早川の筆頭家老・椋梨弘平であった。
「家臣団を代表してあゆ姫様のご様子を伺いに参りました」
なにせこちらに来てからいろいろあったそうですからとやや目くじらを立てな
がら言う椋梨に、あゆは、えへへっとちょっと参ったように笑う。
「でもでも、あゆはちゃんと小早川の姫らしく対応できたのよ」
「それも伺いました。少ない人数で素晴らしい対応をなさいました」
ですが、と椋梨はあゆに念を押すように諌言する。
「何卒、そのような時は直ちに早馬にて国にお知らせください。あゆ姫様にもお考
えがお有りになれたゆえの行動なのでしょうが、ことは毛利の一大事にて、ひいて
は小早川と毛利の大事にとなりかねません。ましてや、賊を見つけて誰にも知らせ
ずに1人で追いかけるなど、もってのほかでございます!」
「はい・・・」
あゆは、しょげげ~~んとする。
尾崎局をさらう賊のことは嘘なのだが、黙って城を抜け出したのはさすがにまず
かった。あの後、隆元の擁護があったといえ、中の丸に同じ事を言われて大いに
叱られ泣かれ、あゆは困ってしまった。
「姫様。姫様は小早川の姫であり隆景様の奥方ですが、まだ子供です。大人が子供
のことを心配するのは当たり前のことです。こたびのことも毛利の方々が姫様に
いろいろおっしゃっられたはずですが、あれは当然のことなのです。彼らは心から
姫様のことを、我らにお預けになられた方を心配したのです。彼らを助けの手を
取るのを遠慮する必要はまったくありません」
「それは・・・・・わかるのよ」
でも、尾崎局が彼らに会いたくないがわかったから、あゆは彼女を気持ちを
優先したのだ。したかったのだ。
「ご自分が原因でない騒動に巻き込まれたら、責任は大人に取らせなさい」
「・・・・・はい」
やっぱり私って信用ないのねと、あゆは思った。
「ともかく、姫様の吉田滞在は、小早川家家中に少なからず動揺をもたらしま
した。彼らは大変心配しております。皆を安心させるためにも沼田に帰る日まで、
何卒つつがなくお過ごしください」
つまり大人しくしてろと言うことだ。
椋梨は田坂の爺ほど甘くはないが、田坂の爺に負けないくらい自分たちのことを
心配してくれていることはあゆもわかっている。
田坂全慶亡き今、椋梨が爺やみたいなものなので、あゆは大人しく言うこと
聞くことにする。
「わかったの。大人しくいい奥方になれる勉強をしてるの」
「それはようございます。では、説教はここまで。本日は、沼田から良い物を
お持ちしましたよ」
椋梨は、先ほどまでの厳しい空気を和らげ、あゆへの土産を渡す。
「新たな干物となにか山口らしい品をご所望と言うことで、母君の東の局様から
こちらをお預かりしました」
「あ~~、砂糖壺なの」
やったあ、お母様ありがとうなのとあゆは、大喜びする。
砂糖壺は、その名のとおり砂糖を入れた壺だ。あゆが中身を確認すると、横二寸、
高さ三寸ほどの小ぶりの壺いっぱいに砂糖が入っている。
砂糖は、この時代明からの輸入品しかなく、明と貿易をしていた大内家の膝元・
山口ならいざ知らず沼田では滅多に手に入らない品物だ。
では、なぜ壺いっぱいの砂糖があるのかというと、二年前の陶晴賢の謀反の際に
山口から脱出してきた者達が、沼田川の渡航賃および小早川領を安全に抜けるため
の保証賃として置いていったのだ。
山陽地方は、沼田川を渡らなければ東にも西にも行けないので、こういうところ
が交通の要所を押さえている者の役得である。
「なにか甘いものでもこしらえますか?」
「ううん。これは尾崎のお姉様に差し上げようと思うの。お姉様は、山口を恋し
がっているから」
「よろしいのですか?あげてしまえば、奥向きの砂糖は全部なくなりますが」
砂糖はかなりの量が集まり、隆景の差配で贈答用に使う分以外はすべて奥向きに
くれた。それを使って、東の局があゆに甘いおやつをこしらえていたのだが、あげ
てしまえば、それはもう食べられなくなる。
「いいのよ。私はもういっぱい食べたもの。それよりお姉様が喜んでくれたほうが
うれしいの」
お姉様、喜んでくれるかなとキャッキャッしているあゆに、椋梨は
「しばらく見ぬ間に成長なされた」
とすんと鼻を鳴らしたのだ。
「まぁまぁまぁ、砂糖じゃないの。まぁまぁまぁ、こんなに!?いいの!?
ありがとう!!」
尾崎局は、砂糖の進物を大層喜び、それを使って甘いまんじゅうをたくさん作り、
あゆにもお返しにと数多くくれた。
あゆは、そのうちのいくつかを持って、景信の家などお世話になった者の家に
挨拶に行くことにした。
「とととととんでもない!?お方様が我が家にご訪問なんて恐れ多い!!」
「いいのよ。尾崎のお姉様のことで、景信のご家族にも心配かけたし、まだ挨拶し
てないもの」
慄く景信に対しあゆは軽い感じで言うが、椋梨はやれやれと額に手を当てて、
「主君が家臣の家を訪ねるのは、本来とても大変なことなのですが・・・・」
と教えたもの、
「ここは吉田で、他の者の目もないですし、いいでしょう。景信殿には、毛利家被
官の筆頭として小早川で活躍してもらうつもりですし、私も筆頭家老として挨拶し
ましょうか」
「ひひひ筆頭!?まだ奉行人にもなっていない私がですか!?」
「毛利家の重臣桂家の出なのですから当然でしょう。期待していますよ」
ということで非公式の電撃訪問となったのだが、桂家では充分大騒ぎとなった。
「小早川のあゆなのよ。この間の件は、いろいろ心配をかけてごめんなさい」
「とんでもございません。肝心なときに役立たずの愚息にて、とんだご迷惑をおか
けしまして」
景信の父・桂元澄は恐縮し、深々と平伏する。
「そんなことないのよ。景信は私をいっぱい助けてくれたのよ。よい息子なのよ」
「お、恐れ多い」
「小早川家筆頭家老の椋梨です。あゆ姫様吉田滞在中のご子息のご活躍は姫様から
も耳にしております。沼田における活躍も期待でき、私も楽しみにしているところ
です」
「筆頭家老殿まで。小早川家に仕官できたことでさえ名誉だというのに、そのよう
なお言葉まで賜るとは、四男坊には過ぎたる名誉。景信、心して小早川家にお仕え
するのだぞ」
恐縮しきっている父に釘を刺され、景信はきりりと表情を引き締める。
「もちろんです、父上。心得ています。ここにおらぬ小早川隆景様に、お方様、
椋梨殿に誓います。桂景信、小早川家のために全身全霊を尽くしてお仕えいたしま
す。今後ともよろしくお願いいたします」
この言葉通り、景信は生涯小早川夫婦のために尽くした。
「景信のお家の方にご挨拶できたし、おまんじゅうも喜んでくれてとっても良かっ
たのよ」
「すみません。母や妹が大はしゃぎして」
重臣の家といえども砂糖入りまんじゅうは滅多に食べられず、景信の母や妹は
ご下賜品のまんじゅうに大喜びし、その声は屋敷の外で見送られるあゆの耳にまで
届き、見送りに出た景信や景信の父兄をおおいに赤面させたのだった。
「いいのよ。喜んでくれたことがわかるもの」
尾崎局も砂糖を喜んでくれた。前は干物も大層喜んでくれたし、とってもうれし
いとあゆは心躍る。
「そうだ。椋梨、干物たくさん持ってきてくれたのよね?」
「はい、それは」
「それ持って、吉川の元春お兄様にご挨拶に行っちゃダメ?」
あゆが小首をかしげて可愛らしげにお伺いするが、椋梨は片眉をつり上げる。
「姫様、私の話を聞いていらっしゃいましたか?つつがなくお過ごしくださいと
申しましたよね?」
「でもでも~~、元春お兄様にお会いして、隆景様の事を聞きたいのよ」
「吉川元春様とは、来月になればお会いできますよ」
「それはそうなんだけど・・・・・そう、新庄のお姉様とは吉川に行かないとお会
いできないのよ」
新庄のお姉様とは、元春の妻の新庄局のことである。
「景信。吉田から吉川のお城は近いんだよね?」
「行けなくはないですが、一日がかりですよ。山の中を通りますのでわりと寒いで
すし」
「寒さなんかへいっちゃらだもの。新庄のお姉様とは滅多にお会いできないし、
ご挨拶したいのよ」
姫君は、その身分と安全上の理由から城からなかなか出れない。さらにこの交通
事情の悪い時代に、遠方、まして他の領地にいる親族に会いに行くことは難しかっ
た。
「お方様。気持ちはわかりますが、毛利が許しませんよ」
毛利には預かっている手前、あゆの安全を図る責任がある。
領内ならともかく領外ではなにかあれば、責任問題が大きくなる。
あゆには、尾崎局をさらった賊を追いかけたからという理由があるとは言え、
勝手に城から消えたという前科があるため、毛利は行き先が吉川とは言え外に出さ
ないだろうと景信は考えていた。
「そもそも吉川が挨拶に来てくれとも言ってませんし」
「姫様。まずは、先方にお伺いしていいか聞いてから行くのが礼儀ですぞ」
2人に難しいと言われるが、あゆはそれでも諦めきれず、
「尾崎のお姉様にお願いしてみるのよ。お文も新庄のお姉様に送るの」
「・・・・・まぁ、ご挨拶のお文を送るくらいはいいでしょう。干物もそのつもり
で多めに持ってきました」
そういう椋梨に、景信は案外この人もお方様に甘いんだなと思った。
「吉川に?そうね、殿がお許しになったら行ってもいいわよ」
あゆの頼みを尾崎局はあっさりと許可した。
この前の件に加え、砂糖のお礼だという。
「元春の城か。来月に会えるけど、確かに新庄局は行かないと会えないからね。
元春が許すなら行ってもいいよ」
隆元も領内では毛利の警護を就けるという条件で許可してしまう。
「やったあ。後は元春お兄様のお返事待ちね」
「やれやれ、毛利方も姫様になんと甘い」
「まぁ、いろいろありましたから」
とはいえ、景信も椋梨の意見に同意し、少しおかしいなとも思う。いくら領界が
接しており弟が継いだ家とはいえ、国内が政情不安でゴタゴタしているときに、
預かっている大切な姫をよそに行かせることなどありえるだろうか。
(とはいえ、お方様は味方側の姫だしなぁ)
今回の訪問は、あくまで非公式の奥向きの親善を深めると言うことになるので、
表の交流とは違うが、表に影響が全くないわけではない。
う~んと景信が考え込んでいるのに対し、表向きの事なんてぜんぜんわかってな
いあゆは、るんるんでお返事まだかなと浮かれていた。
「新庄のお姉様はどんな人かな。尾崎のお姉様みたいに優しい人かしら」
「はて、それはどうですかな」
椋梨がふむと顎に手を当てて考える。
「守護代の姫君である尾崎局様と違い、新庄局様は安芸の国人衆熊谷元直様の姫君
でいらっしゃいますから、小早川家家中の娘とそう変わりないかと」
「あれ?吉川のお姫様じゃないの?元春お兄様は、吉川に養子に行ったんでしょ?」
小早川は隆景を婿養子としてもらったので、てっきり吉川もそうしたのだと思っ
ていたあゆは意外そうな顔をする。
「吉川家に元春様に釣り合う姫君がいらっしゃればもちろんそうしたのでしょうが、
あいにく先代当主興経殿には姫君がおらず、他にも年齢的に釣りあう方がいらっ
しゃらなかったそうです」
「そうなの?じゃあ、元春お兄様はなんで養子に行ったの?興経殿には他にお子様
がいらっしゃらなかったの?」
「いえ、千法師さまという方がいらっしゃったのですが・・・」
「景信殿!!」
姫様に余計なことを教えないという目で椋梨にきつく咎められ、景信はあわわと
口を塞ぐ。
「なに?その千法師さまという方がどうかしたの?」
「いえ、なんでも」
「もう終わったことですし、表の話です。姫様が気にする必要はございません」
景信はだんまりを決め、椋梨は知る必要はないという。
こうなるとあゆが何を言おうと2人がしゃべらないことは、あゆにもわかる。
「わかった。もう2人には聞かないのよ」
と言うが、あゆにはもう別に頼りに出来る者の見当が付いていた。
「で、俺の所に来たわけだ」
「弥四郎なら教えてくれると思ったの。えっ~と、き、き」
「忌憚なく、か?」
「そう。そうなのよっ」
あゆは干物を与えるという名目で、椋梨が毛利家の者達を会談を行っている隙に、
困り果てる景信を引き摺るようにして井上弥四郎を訪ねたのであった。
「教えて欲しいのよ。吉川では何があったの?」
「やしろう~~」
教えるなと景信が恨めしそうな目を弥四郎に向けるが、
「まっ、この間、あはいが砂糖入りのまんじゅうをもらったし、こうして新たに
干物をもらったしな。いいだろう」
ただ、俺も詳しくは知らないがなと前置きした上で、弥四郎は吉川について語り
はじめる。
「吉川家の前当主吉川興経は、家中の者どもに追い出されたんだよ」
「追い出された!?どうして?お兄様と同じで子供で、おめめが見えないから?」
「いや、興経は壮年を迎えた武勇には優れる頑強な男だ」
(お兄様とは全然違うの)
兄が持っていればと言われたものを吉川興経は持っていたのに、なぜ家中を追い
出されたのだろうとあゆは不思議に思う。
「ただ非常に短絡的な男でな。この国の連中は今日は尼子で、明日は大内という
くらい二つの家の間を行ったり来たりしているのは姫にもわかるな?」
「うん」
「生き延びるためには仕方が無いんだが、このやり方を繰り返す場合注意すべきな
のは、どちらにも恩を売っておいて、恨みはさほど買わないことなんだ。ようは、
どちらにも相手の家に味方したのは仕方が無いと思わせておく、と言うことだ」
「なるほど」
「興経は、これをしなかったんだ」
吉川氏は、かつて尼子家当主の正室を輩出したほど尼子と関係が深かったが、
安芸国内の尼子氏勢力は大内氏勢力と拮抗していたし、石見銀山を巡っては敵対
関係にあった。
なので、尼子と大内、どちらにも顔を利かせておくのが肝要なのだが、
「10年前の大内の出雲遠征の際、興経は大内から寝返り尼子に味方した。これに
より大内勢は総崩れとなり大内方の諸将が大勢死んだ。さて、あゆ姫。おまえが
大内だとしてだ。こんな事をしでかした興経が再び尼子から寝返り大内に属したい
と願ったとき、お前はこれを受け入れるか?」
「え・・・・・なんかやだ」
10年前の出雲での戦いは、あゆの父が死んだ戦いのはずだ。
母はよく、その戦いで亡くなった父にあゆの顔を見せたかったと言っていた。
あゆは、興経という人のことは全く知らないが、父の死に関わった人の味方なん
て欲しくないと思った。
「だろう。大方の感情がそうだ。だからそういう場面で寝返りをするときは今後は、
何が何でも尼子の味方をするという心づもりで居るべきであり、それならまだ
マシなんだが」
「・・・・・・興経殿は、また大内に味方したいって言ったの?」
「あわよくばという感じだったらしい」
出雲遠征で大内が敗退しても、結局安芸国内の尼子勢力がそれほど強くなること
は無かった。
それどころか毛利を始めとして、隣接する周辺国のほとんどは変わらず大内側で
あり続け、大内もやがては勢力も回復した。
この状況を鑑みて、興経は毛利との係争地に関する和睦を通して大内との和睦を
図ろうとした。
「なにそれ・・・・」
あゆはあきれ果てて言葉が出てこない。
それではなぜ吉川は出雲で大内を裏切り、父は死ぬことになったのか。
自分が生き延びるためなら他人はどうでもいいと言うことなのか?
「あゆ姫のように興経の所業に呆れ、吉川のために何とかしようとした連中がいた」
「家中の者達ね」
「ああ。こんな短絡的で優柔不断な主君なんかついて行けないからな」
他に佞臣に政務を任せ、内政を試みないなど巷説いろいろな噂が流れているが、
ともかく吉川の家中の者達は、小早川と同じように当主の交代を画策した。
「そこで白羽の矢が立ったのが、毛利元就の次男・元春だ。母親が吉川の出だから
な」
元春は当時14歳の元服したばかりであり、当主となっても補佐さえあれば吉川
を率いることが出来ると考えられた。
これには、大内義隆も大いに後押しし、毛利の後援が得られなおかつ吉川の血を
引く元春なら異存は無いと多くの吉川家家中の者が賛同して、元春の吉川入りが
決まった。
「でも、興経殿には千法師というお子様がいたんじゃないの?」
「よく知ってるな。たしかに、興経には千法師という息子がいた。ただ年齢的には
あゆ姫とそう変わらん」
「千法師殿が当主になれなかったのは、お兄様と同じ子供だったからなのね?」
「それもあるが、一番懸念されたのは親の影響だな。子供にとってその親がどんな
人物であろうと親は親だからな。せっかく興経を追い出しても子供を通して興経の
影響が残ったら意味が無いんだよ」
「・・・・・・・」
兄もよく田坂の爺に影響されすぎていると怒る家臣の対応に困っていた。
田坂の爺は、自分たちにとって親も同然の存在だったので、知らぬうちに強い
影響を受けていたのかも知れない。
「それにな、諸将の大半を死なせるほどの寝返りをした当主を抱いた家をだ、
その当主の子に当主が交代したからといって、すぐに信頼できるか?」
それを聞いて、あゆはう~~~んと首がかしげるほど悩んで、首を横に振った。
「すぐには無理なのよ。その子がどんな人なのか見てみないと」
「そんな時間は、吉川には無かった。あの寝返りで吉川の評判は地に落ちたからな」
あゆが父を失ったように、出雲遠征での興経の行動はあまりに影響が大きかった。
それにより吉川はどのように評されたのか、あゆは間もなく知ることになる。
「それで、興経殿と千法師殿はそのあとどうなったの?」
「お方様はそれ以上は・・・」
ここで景信が口を出す。それ以上を小早川の姫に知られるのはよくないとの判断
だ。
「知りたいか、あゆ姫」
弥四郎の問いに、あゆはこくんと頷く。
「この事実を知るにはそれなりの覚悟が居るぞ。もしかしたら自分の夫が嫌いに
なるかもしれないぜ」
「構わないの。話して」
「いや、こっちは困りますよ」
主君夫婦が不仲なのは家臣として大いに困りますと景信はあゆに、もう帰りま
しょうと懇願するが、
「あゆは、隆景様をお慕いするかどうか考えているところなの。これはきっととて
も大事な話のはずだから聞くのよ」
「隆景様はよい御夫君ですって」
「桂、それを決めるのはあゆ姫自身だ。いい覚悟だ、姫」
と弥四郎は吉川前当主親子の顛末を語りはじめる。
「最初に言っておくが、吉川興経とその息子千法師は、3年前に死んだ。毛利の
手の者に殺されたんだ」
それを聞いて、あゆ姫は自分の太もも辺りの小袖の生地をぎゅっと握りしめる。
「元春お兄様の邪魔だったから・・・・?」
「そうだな。だが、そこに至るまでにも経緯がある。こういうことが起きる場合、
大抵そうせざるを得ない理由があるんだ。そして殺される人物も殺されるだけの
ことをしでかしている場合がほとんどだ」
「興経殿は・・・・・大内を裏切る以外にまだ何かしたの?」
「往生際が悪かった。自ら元春の吉川入りを認めながらなかなか城を明け渡さな
かったんだ。なんと3年近くもな」
「そんなに・・・」
(お兄様と全然違う)
あの日、小早川家家中の者達に当主交代を告げた兄は、その日のうちに城を去っ
た。
『それじゃあ、元気で。隆景殿、妹を、母と小早川を頼みます』
そう告げて、用意された輿にさっさと乗り込んでしまった。
隆景と母とともに見送りに出たあゆは、思わず兄を追いかけようとしたが母に
止められた。
隆景は、城から去って行く兄の輿が見えなくなるまで、ずっと頭を下げて見送っ
ていた。
「なんで・・・?」
「理由は、興経の隠居領がはっきりしなかったとも、尼子の支援を期待したとも
言われているが正確なところは当事者のみぞ知るだな。その態度が、関係者を苛立
たせ、不安を与え、結局自分の寿命を縮めたんだ」
さらに興経が隠居した時期は、毛利が井上一族を誅伐した時期でもあり、興経に
関する不穏な噂が流れたこともあり、もはやこのような何をしでかすかわからない
人間は生かしてはおけないと言うことになり、興経は息子共々殺されることになっ
た。
「・・・・じゃあ」
あゆは、またも強く小袖の生地を握りしめる。
「お兄様のしたことは、間違ってなかったということなの?」
「全くその家の血を継がない奴が、大きな動揺もなく新当主になれたんだ。小早川
のような例はなかなかないことだぜ。少なくともあゆ姫の兄は上手くやったと俺は
思うぞ」
弥四郎の言う上手くやったとは、自分が殺されなかったことだろうか、死んだ
家中の者達が少ないことだろうか。それともあゆが実家の力を失うことなく嫁ぐこ
とが出来たからだろうか。
わからない。
だけど、わかるのは一つ。
吉川興経は、自分のことだけを考え、吉川のことはどうでもよかった。
兄は、心から小早川を大切に思い、自分よりも優先したと言うことだ。
あゆは、涙がにじむ目元を袖口で拭った。
「千法師殿は、父親の行動に巻き込まれたのね」
「そうだな。もう少し幼ければ仏門に入れる方法もとれなくは無かっただろうが、
死んだときは微妙な年頃だったそうだ」
もし、千法師が親思いの子供だったならいずれは復讐しに来るだろう。
毛利はそれを恐れたのだ。
「そう。ありがとう、弥四郎。よくわかったの」
あゆは立ち上がり、景信に帰ろうと告げる。
「弥四郎。私ね。元春お兄様の許しを得たら、吉川のお城にご挨拶に行こうと思う
の。弥四郎も一緒に来て欲しいのよ」
「悪いが、同行は遠慮する。吉川には顔を合わせたくない奴がいるんでな」
今の話を聞いて訪ねていくとは度胸があるなという顔で弥四郎は断る。
「え~、椋梨に紹介しようと思ったのに」
「椋梨。小早川の筆頭家老か。また今度紹介してくれ」
「わかったの。じゃあ、また今度ね」
じゃあねと、あはいにも挨拶をしてあゆは弥四郎の家を後にした。
その日の夕方、部屋でぼうっとしていたあゆ姫の元を椋梨が訪ねてきた。
「あゆ姫様。こちらで小早川に仕えたいと申す者を見つけたそうですね」
「景信に聞いたの?そうなの、井上弥四郎というのよ。ずっごく腕が立って、すご
く物知りなの」
「井上・・・。井上一族の者ですか。隆景様がどう思われるか」
やれやれと頭を悩ませる椋梨だが、あゆは大丈夫だと告げる。
「井上一族は、毛利でいろいろやらかしたみたいだけど、小早川は関係ないもの。
それに弥四郎は、弥四郎なのよ。それにもう仕官させるって決めちゃったのもの」
「隆景様のご性格なら姫様に頼まれれば嫌とは言えないでしょうが、姫様。当家も
それほど余裕がなく、そうほいほいと仕官させることは出来ないのですよ。それに
気に入ったからとその者を贔屓にすると家中に動揺をもたらし、最悪かつての大内
家のように御家騒動に発展する事もあるのですよ」
椋梨がこんなことを言うのはすでにその予兆が現れているからだ。
椋梨が景信に昼間あゆ姫とどこに行っていたのか尋ねたところ、恨みがましい声
で井上弥四郎のことと彼らとのこれまでのやりとりを聞かされた。
『お方様は、あいつのこと信用しすぎなんですよ。俺がずっと傍で仕えているのに、
肝心なときになんであんな奴に』
ブツブツ言うその姿は相当不満をため込んでいると見え、椋梨はやれやれと思い
ながらとりあえず諫めておいた。
(景信殿のアレは、若者特有の者ですが、やれやれ青臭い)
こんな青臭い連中をまとめていかなければならないことに面倒と思う反面、微笑ま
しいとなにか心奥が沸き立つような思いがした。
「これは姫様のご評判にも関わることです。仕官させたい者に出会ってもくれぐれ
も軽々しく仕官させるなどとは言わず相手には、「表に相談する」と申してください。
そもそも正式な仕官の決定は表の仕事です」
「わかったの。でも、弥四郎の仕官は絶対なの。弥四郎は絶対小早川の役に立つの
よ」
「姫様がそれほどまでに見込まれるとは・・・・・これは別の意味で一騒動起こり
そうですな」
やれやれやれと椋梨はこめかみを抑えた。
「あのね、椋梨。聞きたいことがあるのよ」
あゆは改まった態度で椋梨に尋ねた。
「なんでしょうか?」
「私が隆景様と結婚したのって、小早川のためだったんだよね?」
あゆの質問に一瞬目を見開いた椋梨だが、すぐに柔らかい表情に変えて深く頷い
た。
「ええ、そのとおりでございますよ」
ようやくご理解くださったかと、椋梨は感慨深げにうんうんと頷く。
「姫様と隆景様がご結婚なされることで。沼田と竹原に別れていた小早川が一つと
なり、この混乱の中を生き抜くのに充分な力をつけることが出来たのです。まった
くよい時期に婚姻なさいましたよ。まさか、大内義隆様があんなことになるとは
思いもよりませんでした」
「あのね・・・・もしもって場合なんだけど、私って、隆景様以外に嫁ぐかもしれ
ないって事はあったの?」
「どうでしょうなぁ。私は竹原小早川に隆景様が来られたときから、姫様の婿は
隆景様しかいないと思っておりましたから。隆景様とならご実家から遠く離れる
ことなく、見ず知らずの嫁ぎ先で苦労することはありませんし」
「それは・・・私もわかったのよ」
尾崎局と話して、愛する人々との別れと失うことのつらさを知った。
たしかにその点であゆは恵まれているかもしれない。
「ありがとう、椋梨。お兄様と私のこととってもよく考えてくれて」
「姫様からそのようなお言葉をいただけるとは。感激です」
ようやく苦労が報われたと椋梨の胸の奥がじ~んと労る。
「でも、隆景様はそれでよかったのかな?」
あゆの言葉に、椋梨はおやっ?となる。
「というと?」
「私、子供だし」
尾崎局の一件で、あゆは自分が子供なのだと言うことをいやというほど思い知ら
された。
「すぐに大人になられますよ。隆景様は待ってくださっておりますぞ」
だからこそと椋梨は忠告する。
「あゆ姫様も、隆景様の奥方としての心構えを忘れてはなりませんぞ。いくら家臣
とは言え、夫君以外の男にあまりに馴れ馴れしい態度はなりませぬ。姫様ももう
11歳なのです。男女の分別はわきまえねばなりませぬ」
「・・・うん」
「よい奥方になられ、御夫君を支えなされ。それが御家安泰、ひいては小早川家の
繁栄につながります」
「わかったの」
まだ隆景を慕う気持ちはわからない。
けれど、その言葉はあゆの胸に刻まれたのだった。
そんなことがあってしばらく経った頃、とうとう吉川からの返事が届いた。
奥向きの交流という頃で返事をしてくれたのは、元春の妻・新庄局だ。
あゆは、ドキドキしながら文を開いてみると
《文を見た。日山城へ来られたし。新庄局》
と、短い文章がつづられているだけだった。
「え・・・・?これだけ?」
今まで習った文体とは全然違う、簡潔すぎる文にあゆはあっけにとられる。
「一応城へは来て良いとの事ですが、なんだか弘中隆兼殿から文を思い起こさせま
すな」
繁平の高山城帰城を巡って、弘中とのやりとりを重ねてきた椋梨は、その時の
ことを思い出したのか、眉間にしわを寄せる。
「なんだが、果たし状みたいな書き方ですね」
文を拝見した景信の何気ない一言に、あゆが反応する。
「果たし状!?私、知ってる。それって、行ったら勝負しなきゃいけないんだよね。
私、新庄のお姉様と戦わないと行けないの!?」
「景信殿。発言には気をつけなさいと言ったでしょう。あゆ姫様も落ち着いてくだ
さい。そんなこと一言も書いてないではありませんか」
邪推はなりませんと、椋梨はあゆをたしなめる。
「さて、招かれましたことには、参らねばなりません。隆景様の奥方として、
小早川家の姫として恥ずかしくない振る舞いをなさらねばなりませんよ」
「わかったの。万が一勝負を挑まれたら、御弓にしてもらうの」
「だから、そうはなりませんよ。万が一申し込まれても景信殿に代理をさせれば
よろしい」
「私、そんなに強くないですよっ」
そんなやりとりをしつつ、吉川氏の居城日山城へ行くことになったあゆ達。
さて、そこでどんなことが起こるのだろうか。
それは、出発前から始まっていた。
吉川領への出立を控えたある朝、目覚めたあゆは自分の部屋の戸の隙間に文が
差し入れられているのに気づいた。
(なんだろ?)
文を読んだあゆは、ハッとして急いでその文を隠すと朝の身支度を調えにやって
きた侍女に、朝食が終わったら椋梨を呼んで欲しいと頼んだ。
朝食後、侍女の取次により椋梨があゆ姫の部屋にやってきた。
「あゆ姫様、お呼びでございますか」
「椋梨、これ」
あゆは、隠していた文を椋梨に差し出す。その文を受け取り内容を拝見した椋梨
は、にわかに眉間のしわを寄せる。
「姫様、これを誰かに見せられましたか?」
「ううん。椋梨が初めてよ」
「それは良いご判断でした。このことは景信殿にもご内密に。この文の処理は、
私にお任せください」
椋梨はさっと文を懐にしまう。
「ねぇ、椋梨。私は吉川に行っちゃいけないの?」
あゆは、不安そうな表情で椋梨に尋ねる。
「少なくとも、ここにも今だ吉川を快く思わぬ者がいることは確かでしょう」
「出雲の戦いは、10年も前のことなのに? 興経殿ももういないじゃない」
「誰にそれを。いえ、よしましょう。大方予想は付きます」
椋梨は、悩ましげにやれやれとする。
「あの頃、姫様は生まれたばかりでしたが、当時を覚えている者は今も大勢います」
「・・・・椋梨も?」
椋梨も吉川になにか憤りはあるのだろうか。
彼もまた出雲遠征において、主君を始めとする大勢の仲間を失ったのだ。
「椋梨も吉川が許せない?」
「・・・・・・・たしかに興経殿が起こした行動は、寝返るにしてもあまりに犠牲
が多く、その後の対応も不可解なものでした」
あゆは知らぬ事だが、実は沼田小早川家も出雲遠征の数年前までは尼子方であっ
た。しかし、毛利の吉田郡山城攻めを契機に尼子から大内に寝返ったのだ。
その後は、大内に不信感をもたれつつも一貫して大内方として行動し続けた。
(あの出雲遠征において正平様は、尼子に寝返らなかった)
吉川興経のように厚顔無恥をものともせず、尼子に寝返っても良かったのにそう
しなかった。
『生まれてくる子が城なしでは可哀想ではないか』
そう言って、厭戦気分が蔓延し家臣達からも尼子入りの声が出てもそうしなかっ
た。そして、帰れなかった。
「私が興経殿がしたことで最も許せないことは、それゆえに正平様が姫様の顔を
見ることなく亡くなられたことです」
それが、互いに小早川を思いながらも田坂全慶と相容れなかった要因だった。
田坂全慶は、尼子に味方しなかったことが原因だと譲らなかった。
そんな田坂に尼子に下るよう諌言されつつも繁平は、大内側であり続けることを
選んだ。そんな親子二代の選択が沼田小早川家の高山城帰城に繋がり、隆景への
当主継承につながったのだ。
そして、あゆは隆景の妻となり、繁平は出家したが生きながらえた。
「ですが、姫様の言うとおり吉川興経はもういません」
あの寝返りの果てに吉川の前当主とその子は死んだ。小早川の2人は生きている。
それがすべてだ。
「それに、姫様が会いに行かれるのは、新たに吉川の当主となられた元春様と奥方様
なのでしょう」
「そうなの。元春お兄様と新庄のお姉様にお会いしに行くの」
「その2人は、あの頃の吉川ではありません。なら止める理由はないでしょう。
それに、来月には小早川は正式に吉川と同盟を結ぶのですから」
「そうだよね。小早川は吉川と仲良くしていいんだよね?」
「はい・・・」
正直なところ、隆景が小早川と吉川の同盟を表向きで告げたところ、出雲遠征の
際の出来事を覚えている者達から不安や不満の声が出た。
しかし、隆景が、
『お前達が過去の遺恨を捨てきれないのは重々承知している。しかし、今の吉川は
昔の吉川ではない』
『私の兄は、新しい吉川を作ろうと奮闘してる。どうか、兄を信じて欲しい』
そう告げて、頭を下げたのだ。
仏門に入っている繁平からも隆景殿の言うとおりにとの擁護が出て、小早川は
吉川と同盟を結ぶことが決まったのだ。
「姫様が、ご自分の兄弟を仲良くしてくださったら隆景様は、大いに喜ばれること
でしょう。これもまた御夫君を支えることになります。もちろん小早川のためでも
ありますぞ」
「うん。まずはご挨拶だよね、ちゃんと出来るかな?」
あゆの不安は、政治的なものから自分の振る舞いへと変わっていく、
「向こうは大人ですから心得ておりますよ。それに正式な堅苦しい訪問ではないの
ですから、元気にご挨拶なさいませ。ただし、無礼な振る舞いはなさらないように」
「うん。でもちょっと心配だから、尾崎のお姉様や中の丸に見てもらってくるね。
ありがとうなの。椋梨」
「当日が楽しみですな」
そう言いつつ椋梨は心の内で対応策を考えていた。