その日の夜、すべての予定を終えたあゆは、椋梨の訪問を受けた。
「大丈夫ですか、あゆ姫様」
「なんとか。おっきいお魚と思えば大丈夫なのよ。お肉はおいしかったし」
あゆは、イノシシを乃美宗勝がいつも持ってきてくれるとれたての魚と思い込む
ことで、なんとか乗り切った。
「姫様、なんとたくましくなられたことか」
(吉田滞在は間違いでは無かったか)
当初は一人吉田に取り残されたあゆのことを案じていた椋梨だが、想像以上の
成長を見せるあゆに、胸が熱くなる。
「あゆ姫、ちょっといいかい」
新庄局が少し困ったような顔をしてやってきた。
「実はね、吉川経安殿の奥方が来られていてね。昼間の夫の件をぜひ詫びさせて
欲しいって」
「こんな夜に?私はもう気にしてないですのよ」
「けっこう思い詰めててね。会ってやってくれないかい。石見吉川はうちにとって
大事な家なんだよ」
頼むよという新庄局に、どうしようとあゆは椋梨を見やると、椋梨は、
「気にしていないとおっしゃるのなら、それを先方にお伝えなさいませ。さすれば
相手も落ち着かれましょう」
「わかったの。新庄のお姉様、お会いします」
「ありがとう。助かるよ」
奥向きの対面なのであゆは一人で行くことにし、椋梨に行ってきますと手を振っ
て、新庄局と共に奥方との対面に向かった。
「すみません、兄と少し話をしてまして」
あゆが出て行ってから少し経って、景信がやってきた。
「あれ、お方様は?」
「吉川経安殿の奥方との対面に向かわれましたよ。謝罪に来たそうです」
「こんな夜更けにですか?やはり相当思い詰めてますね」
景信はらしくないため息をついて椋梨の近くに腰を下ろす。
「ふむ。ということは、吉川は相当追い詰められていたと言うことですか」
「兄曰く、現場に着いたら想像以上にやばかった、そうです」
あゆが居ないということもあり、二人は表向きの話をし始める。
「事の始まりは、やはり出雲遠征での先代当主の行動です」
「当然です。あれでどれだけ多くの損害を大内側の諸将が被ったことか」
当主と多くの仲間を失った椋梨は、あたりまえだという顔をする。
「毛利(うち)は幸い元就様も隆元様も無事でしたが、渡辺通殿の犠牲合ってこそ
です。吉川は、あの寝返りで多くの者達の恨みを買いました」
「あれで恨まない人間は、神仏に近い高尚な人間ですよ」
「なおまずいことに、恨みを抱いた者達は吉川の近隣諸国の人々です。そして、
あの寝返りがあっても近隣諸国の人々は、尼子に寝返らなかった。さらに分家の
石見吉川家もです」
それが、吉川にとっての死活問題となる。
「大内側は、多くの諸将を失ったために吉川討伐軍はあげられませんでした。しか
し、意外な者達の行動が吉川を圧迫しました」
「商人達ですな」
「はい。出雲遠征以降、大内に通ずる商人はもとい、近隣諸国の商人達も吉川に
出入りしなくなったそうです」
利潤を求めて諸国を津々浦々駆け巡る商人達だが、多くの者は人の心を持ってい
る。目をかけられたり贔屓にしてもらっていた諸将が亡くなるきっかけを作った者
の領地へ商売に行こうと思う者は少なかった。
「さらに民達の吉川への評判が外から来る商人に伝わり、彼らも吉川へ行こうとは
しなくなった」
不可解な寝返りで領主を失った領民達が、原因となった者を悪く言うのもまた人
の道だろう。彼らの話を聞いた外から来た商人達は吉川へ悪い印象を抱き、自然足
は遠のいた。
「尼子側の商人が多少来ていたようですが、なにぶん尼子から吉川領は遠いですか
らね」
その分かかった費用は当然売り買いの値段に加算される。つまり物価の高騰を
招いた。
「通行の妨害をするものもいたかもしれませんからね」
「さらに近くで売れないなら遠くで売ろうと、せっかく苦労して瀬戸内側の河口
まで降ろした吉川領の木材が舟で運ばれず、結局売れなかったこともあるそうです
が」
瀬戸内の海を渡ろうとするなら海を牛耳る者達に話をつけなければならない。
彼らを無視して海を渡ることは不可能なほど彼らの支配は強固だった。
その支配する者達を世の中の人々は「海賊」と呼んだ。
「小早川は瀬戸内の海賊達に顔が利きましたよね。何かしました?」
「さて?なんのことやら」
さっぱりですねと言う椋梨の顔を見て、景信はやっぱりと悟った。
「しかし、吉川は石見にも領地を持っておられたはず。石見には銀山があるはずで
すが。石見吉川家があるくらい重要視していたようですし」
山陰の方の事情にあまり詳しくない椋梨だが、銀山の名前くらいは知っていた。
「あれはどうしたのです。経安殿は小笠原に取られたような言い方をしていました
が」
「あ~、それなんですけどね」
景信はぼりぼりと後ろ頭をかきながら説明する。
「まず、経安殿の言っていたことは確かです。石見吉川家は、代々銀山を含む周辺
を領有していて、先々代の時に大内に取り上げられています。それ以来、領地奪還
が一族の悲願らしく忠勤に励んで先代の時に取り返しました」
しかしそれらもまた経安の言ったとおり、興経の寝返りにより水泡に帰した。
「興経殿の寝返りは、経安殿の本意では無く、出雲遠征では本家と決別して、大内
側に居ることを選んでます」
これにより一時的にでも懐柔させておきたい大内義隆の思惑により、所領を安堵
された。
「しかし、分家とは言え吉川ですし、あんまり信用は無かったようです。それと
経安殿のご実家の久利家はもうありません」
「実家がない。なぜです?」
「出雲遠征で大内が敗退した後、石見に尼子が攻めてきました。久利家は尼子の
侵略路上にありましたので、巻き込まれたそうです」
岩国吉川家が作成した「陰徳太平記」によると久利家は領地を焼かれ、城を破却
されたという。
(それであの態度か・・・)
もう彼には石見吉川家を守るしか残されていないのだ。
椋梨が合点がいく。
「銀山自体はどうなっているのです?」
「あれから大内と尼子の間を行ったり来たりして、今は尼子の勢力下です。尼子は、
石見国人の小笠原に任せているようですね」
「結局、吉川はなにも手に入らなかったというわけです」
あの行動が、あの一夜ですべてがひっくり返り、多くの者が死んだというのに、
「愚かな」
椋梨の声は静かながら怒りがにじんでいた。
「確かな見返りも確約もせずにあれほどの寝返りをしたというのですか。自分の命
が助かるためだけに、味方を裏切ったと?」
「全く目算が無かったわけじゃないらしいです。興経殿は、尼子当主晴久殿の縁戚
であることからそのツテを頼ろうとしたみたいです」
景信の言葉に、椋梨は「はっ?縁戚?」と呆れる。
「確かに興経殿の祖父である国経殿の娘は、尼子当主の正室となりましたが、尼子
にとっては先々代の話ですよ」
それにと、椋梨は続ける。
「縁戚を名乗るならなぜ尼子と大内を行ったり来たりしたんですか。一族衆は、
信頼が出来るからこそ寝返りは御法度です」
「ですよね~」
うんうんと景信の頷く。
「興経殿の下馬評は、知性が全部武にいっていて、武で全部解決できると思い込ん
でいる、だそうです。吉川の武将は、もともとそういう所があるんですが、それが
最も強調された当主だったみたいですね」
(勇はなし、か)
勇があったのなら、経済的困窮を打開するために、尼子と組むなりなんなりして
周辺の領地に攻め入るなどしたであろうに、興経は出雲遠征後なにもしていない。
あの寝返りが、彼の最大の勇であり、そして使い果たした。
(そんなのだから身内に見限られるんですよ)
椋梨は吉川家の当主交代についてようやく納得できる答えを得た。
そして、繁平は幼いながら出来た人であったことを再認識した。
「しかし、それほどの信頼を失ったのならいくら元春様が吉川家を継がれても
苦労は多いでしょう」
「みたいです。元春様ご自身は、とても真面目で誠実な御方なのですが、なにせ
父君が元就様ですからね」
「なるほど・・・・」
毛利元就の謀ごとの巧みさを知らぬ者のはいない。たとえ本人がまともそうでも
その裏で糸を引いているのではないかと警戒されてしまうのだ。
それは吉川の中でさえだ。
「で、家中の評は?」
「上の世代は当時を知っているため、元春様を盛り立てていこうという機運がある
のですが、下の世代が微妙らしいです」
「10年は、子供が育ち上がるには充分な時間ですからね」
10年前、生まれたばかりの赤子が、かわいらしい姫に成長したように、吉川の
子供達もまた若武者に育っていた。
その頃、あゆは吉川経安の妻・みつと対面していた。
「昼間は、夫が大変ご無礼いたしまして、本当に申し訳ございません!!」
みつは、悲痛な表情で、頭を床につけるように必死な形相であゆに謝罪した。
「姫様は親善に来られたというのに、我が家の問題に巻き込もうとするまねなどし、
なんと言うことを。夫の行動に本家はまったく関係ございません。なにとぞ吉川を
お見捨なきようにお願い申し上げます」
「そんなことしないのよ。元春お兄様も新庄のお姉様も好きだもの。もう気にして
ないから顔を上げて欲しいの」
あゆ自身は、経安の行動にびっくりはしたもののそれだけで経安を嫌うなどとは
思ってすらいなかった。
「私の方こそごめんなさいなのよ。隆景様と経安殿が同じなんて言ったから気に
障ったのよ」
「とんでもございません。鎌倉以来の名門を継がれ確固たる地位を得ている隆景様
と石見の情勢に翻弄される我が夫などとてもとても」
同じでないと言いたげだが、みつは口をつぐみ、
「それでも、風前の灯火である我が家にとっては頼りになる方で、私の最愛の夫な
のです」
その声色は、夫を蔑むのではなく慈しんでいた。
これにあゆは興味を持った。
「経安殿も御婿に来られたのはどうして?石見吉川家もお兄様のように後継ぎが
小さいからとかだったの?」
「いえ。我が家は後継ぎに恵まれなかったのです。父は私を含め4人の子をなしま
したが、男の子は一人だけで幼くして夭折いたしました」
先代石見吉川家当主は、娘を一人、また一人と嫁に出したが、ついに後継ぎに
恵まれないと察したとき、末娘を手元に残した。
「本当は、ご本家からお迎えしたかったのですが、ふさわしい方がおられず、同じ
石見の国人衆で、我が家とも縁戚関係のある久利家から来てくださったのが経安殿
です。苦労の人ゆえに厳しかった我が父の元で、経安殿はどれほど苦労した
でしょう」
先代当主は、さらに先代が取り上げられた所領を奪還すべく、死に物狂いで努力
した。軍忠に軍忠を重ね、軍功をあげて、ようやく石見吉川家にふさわしい所領を
回復したのは、経安に家督を譲るわずか3年前の出来事だった。
「私も父より婿となる人間は、厳選に厳選を重ねた末に、所領と家を託すにふさわ
しい者を選んだので、婿を立てて家を盛り立てて行けと聞かされました。それでも
見破れず、化けの皮が剥がれてどうしようもない人間とわかったら即座に斬り捨て
て構わないとも」
(乳母や似たようなこと言ってるのよ)
あゆの乳母は人の居ないところであゆに常々、
『隆景様に小早川を任せても構いませんが、けして油断なきよう。小早川のために
ならぬと思われたときは、即座に処罰なされませ』
と言っていたので、どこもそんな感じらしいと知る。
「でも経安殿は、父の見立てたとおりの御方でした。苦難から決して逃げ出さず、
我が家と私達を守ろうと懸命な御方です。石見吉川家はあの方がいるからこそ今も
生き残れているのです」
(そうか、だから夫のために謝りに来たのね。それがこの方の妻として夫を支える
と言うことなのね)
あゆは、一つ学んだような気がした。
「石見のお方様は、経安殿をとってもお慕いしているのね」
思いがけない言葉だったらしく、みつはぽっと頬を染める。
「はい。経安殿はお優しく、私と息子をいつも案じてくださっています。とても
お慕いしております」
そう告げるみつがとっても綺麗に見えて、あゆはにこりと微笑む。
「とっても素敵。表向きのことは出来ないけど、私は、あゆ姫として二人のことを
応援するのよ」
「ありがとう・・・ございます」
みつは、感涙の涙を流し、二人のやりとりを見守っていた新庄局はほっとしたの
だった。
対面の場から部屋への帰り道、あゆは先ほどの対面を振り返る。
(石見のお方様とのお話は、とってもお勉強になったのよ)
椋梨に言われ、あゆは自分が隆景の妻であると言うことは理解したが、妻として
支えると言うことがまだよくわからなかった。
乳母にあゆは、
『姫様は婿にもらってやった側なのですから、決して臆さず、威厳を落とさずに
接しなさいませ』
と言われた。
でも母には、
『隆景殿を困らせてはいけませんよ。我が儘はほどほどになさい』
と言われ、兄には、
『家とか立場に関係なく、あゆは隆景殿とどうなりたいの?それを考えたらいいよ』
とも言われた。
同じように婿をもらった石見のお方は、夫の行動を我がごとのように謝罪し、
一緒に家を守ろうとしている。
(私だって小早川の姫だもの。お兄様のお役に立てるよう一生懸命お勉強したし)
だから、今度は隆景様の役に立てるようになればいいのだとあゆは思うが、
(でも、それでいいのかな?)
なぜなら隆景は、あゆに小早川のために役に立って欲しいなどと言ったことはな
いのだ。
「どうかしたのかい?百面相して」
新庄局に声をかけられ、あゆは我に返り、何でも無いという。
「新庄局様」
そこへ、鶴寿丸の乳母がやってきた。
「こちらへ若様がお越しになられませんでしたか?お部屋で寝ていたはずなのに、
先ほどのぞいたら姿が見えなくて」
「なんだって、あれほど一人にするなと言ったじゃないか」
「申し訳ございませぬ」
声色を強める新庄局に乳母は怯えながら平伏する。
「新庄のお姉様、落ち着いて」
あゆはヒヤヒヤしながら新庄局に声をかける。
「部屋はすぐそこだから、私は一人で帰れるし、鶴寿丸殿を探しに行って欲しいの」
その申し出に新庄局は大丈夫かい?と心配したがあゆの部屋は、そこの角を
曲がった本当にすぐそこだったので、じゃあお言葉に甘えてと乳母を連れて、息子
を探しに行った。
「なんだが眠くなってきたの。椋梨達、もう帰ったかな」
ふぁ~とあくびをしながら角を曲がったとき、
「んむっ?」
部屋の前の廊下の奥にある角からじぃ~っとこちらを見ている低い視線が
あった。
「鶴寿丸殿?」
「あゆ姫様?」
あゆの姿を確認して、角から出てきたのは鶴寿丸だった。
「どうしたの?お母様と乳母が探してたのよ」
「あゆ姫様に聞きたいことがあって・・・」
なにかあんまり元気がない様子の鶴寿丸に、あゆはとりあえず部屋に入れた。
「お方様、お帰りなさい、あれ?鶴寿丸様?」
「さきほど、乳母殿が来てないかと訪ねてこられましたよ。どうしたのですか」
「そこの廊下で会ったのよ。なにか、私に話があるって」
あゆは、鶴寿丸を座らせ、話とは何と訪ねた。
「あの、その・・・」
鶴寿丸がちらちらと椋梨と景信のことを見るので、2人がいないと話せないのか
と察したあゆは、2人を下がらせる。
「はい、これで二人きりなの。なんでも遠慮せずに聞いて欲しいのよ」
毛利に来て以来世話や挨拶をし続け、妙な自信をつけたあゆは、お姉様なんだか
らねと、なぜか姉風を吹かせる。そんなあゆに鶴寿丸は尋ねた。
「あゆ姫様は、どうして兄上を殺した隆景おじ上と結婚されたのですか?」
「ええ!?」
この質問にあゆはビックリする。
「私のお兄様は生きてるのよ。隆景様は殺してなんかないの」
「生きてるの?」
「生きてるわよ。吉田に行く前にご挨拶に行ったもの」
疑いの目を向ける鶴寿丸に、あゆはこくんと頷く。
「なんで?小早川も毛利に当主の座をうばわれたんでしょ?」
「お兄様は、自分で当主の座を隆景様にお譲りしたのよ」
「自分でゆずる?そんなことできるの?」
「出来るんだって。お兄様は譲って、すっきりしたって言ってたのよ」
あゆは最初坊主頭にしたことを言っていたと思っていたが、後にそれだけじゃな
いことに気づいた。
「・・・・あゆ姫様の兄上はどうしてゆずったの?」
「お兄様はおめめが見えなかったの。それに子供だからこのまま当主を続けたら
小早川が危ないって」
「おめめが見えない。そっか、でも・・・・」
鶴寿丸はしゅんとと沈んだ顔をしてつぶやいた。
「じゃあ、なんで父上は、吉川の前の当主を殺したの?」
「え~っと、それは・・・」
あゆが井上弥四郎に教えられたことを言おうとしたとき、
「あゆ姫様、失礼します」
椋梨が突然間に割り込んできた。
「椋梨、さがってなきゃダメじゃない」
「それより、鶴寿丸様のお姿が見えないことでご両親が大変心配なさり、城内が
騒がしくなっております。鶴寿丸様、大事になる前にお部屋にお戻りください」
「でも、鶴寿丸殿のお話がまだ・・・」
「鶴寿丸様、あなたはご自分のうかつな行動で身の回りの者が、処罰されてもよろ
しいというのですか?」
椋梨の厳しい言葉に、あゆは鶴寿丸殿にきつすぎるのよと講義するが、
「帰ります」
鶴寿丸はすくっと立ち上がる。
「鶴寿丸殿、お話はもういいの?」
あゆが尋ねると、鶴寿丸は、
「お寺」
「お寺?」
「明日いっしょに、お寺に行ってください。そこなら話せるから」
「わかった、行くのよ」
あゆが約束すると鶴寿丸はニコッと笑って、部屋から駈けていった。お待ちくだ
さいとその後を追う景信の声が聞こえた。
「お寺って、どこのお寺かな。とにかく鶴寿丸殿に明日ちゃんと教えなきゃ」
教えられたとおりに話すぞと意気込むあゆだが、
「姫様、そのことなのですが」
椋梨はそれに待ったをかけた。