翌日、あゆの輿を射貫いた犯人は捕まった。
全員、吉川家中の若い郎党であり、徒党を組んで西禅寺近くの山中で狩りを行っ
ていたところ、手元が狂ってあゆの輿を射貫いてしまい、恐くなって逃げたと、
あゆには説明された。
「あとは、表向きの話となりますので、私と景信殿で処理します」
「輿も明日には直るそうですよ。吉田郡山城には予定通りの帰城となります」
「わかったの。あとはお願いね」
あゆは、新庄局と鶴寿丸と遊ぶからと二人の元へ行ってしまった。
「はぁ~~~~、お方様が変に騒ぎ立てずに本当に助かりましたね」
気が抜ける景信に椋梨はフフッと満足そうな笑みを浮かべる。
「姫様もご成長なされたということでしょう。まことますます先が楽しみで」
「元春様にも迅速に対応いただきましたし、これなら隆景様もご納得なさるでしょ
うね」
小早川の輿を矢を射貫く。
これは、敵対行動を意味し、へたをすれば吉川と小早川の間で戦となりかねない
最悪の行動である。
これに対する吉川の対応は素早いもので、元春直々の指揮の下に家中をあげて
調査した。これなら国元にも吉川への悪印象を与えずに報告できる。
「それは様子を見たほうがいい。家中に置ける姫様の人気を甘く見ない方がいいで
すよ」
たとえ現場が融和策を採ろうとしても国元が敵意を示せばどうしようもない。
戦は、時に家の沽券に関わる問題から起きるのだ。
「姫様にも一筆したためていただきましょう。姫様が言えば皆矛を収めます」
(やっぱ姫ってすごいんだな)
毛利の姫はいることにいるが評判はいまいちなので、姫の人気は家々によるなと
景信は思った。
「それにしても今回の件、経世殿の奮闘ぶりはすさまじいですね。謝罪の時など
こちらが気の毒に思えるほどですよ」
吉川経世は、矢輿事件の一報を聞いて以来事態収拾に対応し続け、小早川にも
申し訳ない、申し訳ない。許してもらえなくてもそこをなんとか、というように、
一門衆の沽券などかなぐり捨てたように必死の形相で謝罪してきた。
「それに比べて、犯人達のあの不遜な態度と来たら」
捕まった若い郎党達は、悪びれた様子が全くなく、むしろ元春含む吉川の大人達
への不満をぶちまけたのだ。
いわく、毛利に吉川を売り渡し、吉川を滅ぼそうとしているのはお前達だと。
「彼らは、吉川の外からの評判を知らないんですね」
「外から人か来ず、外に出ることもないですからね」
この時代、関所が設けられ、交通手段が限られ、しかも他所へ行けば間者と疑わ
れる危険性のある世の中で、自由に居場所の外へ出ることは難しかった。
新聞など当然無く、情報を得る手段は限られている。
「彼らは、頼りない当主が率いる不安定な統治が当たり前の世界で育ってきました
から」
「どれだけ新領主が立派でも違和感があると」
「それだけでなく、元春様は毛利から数多くの被官を連れてきましたから」
吉川側の分析によると、元春が当主となってから起こった戦で活躍するのは毛利
から連れてきた者達で、吉川に元いた者達は控えに回されるなど冷遇されていると
印象づけたことが遠因だった。
元春としては、まだ当主になったばかりであり、やはり子供の頃から慣れしたん
で来た者達のほうが使いやすかったことは否めない。
が、一度でも他家の当主となればそれではダメだ。
「しかしこれで、元春様も気づかれたことでしょう。あとは、彼の方次第です。
我々の口出すことではない」
「小早川はどうなんです。隆景様を信頼してるんですか?」
「もちろん我らは隆景様の元に戦いますよ。言ったでしょう。当事者の負うべき
責任は取る、と」
ですが、と椋梨は口にする。
「海はそうはいきません。彼らの心は潮の流れのようなものですからな。隆景様が
彼らの信を得るかは彼の方次第ですよ」
高みの見物をするかのような言い草に、景信はこの人結構いい性格してるなと
思った。
ちなみに犯人は当然許されることなく、すでにこの世にはいない。
『舐めたこと言ってんじゃねぇぞ、クソガキどもが』
詮議の場で、縛られた犯人の一人を締め上げながら椋梨は心の中に秘めていた
不満をぶちまけた。なお、この行為を止める者は誰もいない。
『不満があるなら、そいつに直接言え。他所を巻き込むんじゃねぇ。前当主のクソ
な部分を受け継ぎおって』
いいか!!と椋梨は怒鳴りつける。
『興経のせいでどれだけの奴らが死んで、どれだけの被害が出たと思っている。
うちはな、興経のせいで当主が死んで、幼子が家を継ぐ羽目になったんだぞ!
一人は目が見えず、一人は腹の中でさえ父親に会うことが出来なかったんだ!!』
犯人は白目をむき、口からは泡が出ていたが椋梨の憤りは止まらない
『吉川なんぞ、尼子よりも先に滅んじまえばよかったんだ。お前らが滅んで、喜ぶ
奴らはいても泣く奴なんざおらん!!毛利以外はな!!』
椋梨は壁に強く打ち付けるようにして、犯人を解放する。
『毛利の邪魔さえなければ、我が小早川の全軍を持っておまえたちを殲滅したもの
を。我らが旗を掲げれば、吉川に恨みを持つ者達が喜び勇んでその旗下に入ろう』
それほど興経のしたことは重罪であり、恨みは深いのだと椋梨は喝破した。
『ここが小早川であれば、貴様らなどすぐにサメの餌にしてやるものを。口惜しいが、
清らかなる我が姫に見苦しいものを見せるわけにはいかんのでな。あとは吉川
に任せる』
吐き捨てるように言うと椋梨は場を後にしたのだった。
***********
「新庄のお姉様」
「おや、あゆ姫。いらっしゃい」
新庄局はあゆが来るとおやつを用意してくれた。
「さぁ。お食べ」
「ありがとうなの。鶴寿丸殿は?」
「城下に遊びに行ってるよ。ついこの間まで行くのを怖がってたのに、どういう
風の吹き回しかねぇ」
「きっと勇気を出してるのよ。心配いらないの」
新庄局にも西禅寺で鶴寿丸とあゆが二人だけで消えたことは耳に入っていた。
けれど、寺から帰ってきた息子はあの傷が出来る前のように表情が明るくなり、
よくしゃべるようになった。だから、きっとそう言うことなのだろうと、二人で
何をしていたのかは聞かなかった。
「あのね。鶴寿丸殿は、元春お兄様とお話しできてた」
「いや。寺の件で忙しいからね。鶴寿丸も遠慮してるよ」
「そっか、お寺に元春お兄様が来てくださったときはビックリしちゃったの」
「元春は領内で何かあるとすぐに飛んでいくからね。とっても領民想いで、家族
思いで。そんなあいつを私は支えてあげたい」
愛おしそうに言う新庄局に、あゆはもじもじと尋ねる。
「元春お兄様と新庄のお姉様はどうしてご結婚されたの?お父様に嫁げと言われた
から?」
「違うよ。鶴寿丸が出来たから結婚したんだよ」
「どういうことですの?」
「あたしと元春が出会ったのは、吉川入りがちゃんと決まる前のことでね」
その頃、元服を果たした元春だが、吉川への養子話がきちんと定まらず、家に
おける立場の不安定さに苛立ち、城の外へ飛び出す日々を送っていた。
一方、新庄局・きぃは、親の放任主義と自身の個性的な顔立ちからどうせまとも
な奴と結婚できないだろうからどこに嫁ぐか決まるまで、自分の好きなように生き
ようと、気ままに城の外に外出していた。
「うちの実家の城近くの竹林の中でさ、元春がイノシシと格闘してたんだよ。相撲
を取るみたいに素手で。それがお父ちゃんみたいで、声をかけたんだ。それが出会
い」
『あんたすごいね。うちのお父ちゃんみたいだ』
こんな所に女がいたことに驚いたのか、元春はじっときぃを見つめていた。
その目はギラギラして元春自身が獣のようだった。
『お父ちゃんの子であるはずに、兄ちゃん達にも出来ないよ。あんたどこの子?』
『お前こそ、誰だよ』
『あたしは、この近くの城の城主熊谷信直の娘さ』
『・・・・元春だ。吉田郡山城の毛利元就の次男坊』
『へぇ、ずいぶんと奥から来たねぇ』
半裸でイノシシを仕留めた男を見ても臆することけろっとしてるきぃに元春は、
変な女を見る目を向けた。
「その時からなんか気になってさ。それからうちの近くを野駆けしている元春を
見かけては、声をかけたんだ。最初のうちは無視されたけど、そのうち挨拶してく
れるようになって」
『どうせ暇だろ。乗れよ』
いつしか元春はきぃを乗せて、いろんな場所に連れて行ってくれるようになり、
いろんな話をした。趣味、最近見た面白いこと、家族のこと。
ある日、川辺に座り込んで二人で話をしている時、元春の吉川入りを聞いたきぃは、
『吉川に養子に行くの。あんたすごいね。あんな恨みまみれの家によく行くね』
と驚いた。
『言うなぁ』
『だってさ、当主の寝返りのせいで多くの将兵が死んだって聞かされたよ。うちの
お父ちゃんだって、命からがら逃げ帰ってきたんだ』
『俺の親父と兄貴もそうだ。家臣の犠牲のおかげで生き延びたんだ』
『なんで、そんな家に行くのさ?』
そうきぃに聞かれ、元春は何でかなぁと空を見上げた。
『親父に行けって言われてるからだけどさ・・・・』
じっと空を見つめ続けた後、元春はつぶやいた。
『おふくろの実家だからなぁ』
「元春のお袋様は、甥の所業を聞いてとてもご実家の行く末を心配なさっていて、
元就様に吉川を見捨てないで欲しいと頼んで亡くなったそうだよ」
「元就様も奥方様の事をとってもお慕いしてたの?」
元春様だけじゃなく、吉川を守るために、奥方の願いを叶えるために、吉川のた
めにならない前当主達を消したというのだろうか。
「新庄のお姉様は、元春お兄様と隆景様のお母さまにお会いしたことあるの?」
「いいや、私が元春と出会った時にはすでに亡くなってたからね。元春は何も言わ
なかったけれど、あの頃の元春も寂しかったんだと思うよ」
やがて元春は、きぃに肌の触れあいを求めるようになった。
『バカ言ってんじゃないよ。この助平』
最初は強く拒んでいたきぃだったが、
『なんだよ。いい女に触れたいって思うのは、男の性じゃねぇか』
『はぁ?いい女?こんな顔立ちのあたしが!?』
あんた、目が腐ってんじゃないのと言ったきぃだが、元春の顔は真剣そのもの
だった。
『いい女だよ。お前はいい女だ。きぃ』
そうして、二人は会うたびに情交を結ぶようになった。
「元春と出会って一年くらい経った頃かな。とうとう元春の吉川入りが本決まりと
なってね。元春に別れようって言われたんだ」
「ええ~~、なんで?」
あゆはビックリして声を上げる。
「お慕いし合ってるんでしょ。なんで別れるの?」
「あたしに苦労をかけたくないってさ。吉川は出雲の寝返りから何年経っても卑怯
者とのそしりが消えなくてね」
熊谷家家中でさえ、いまだ吉川に遺恨を持つ者は大勢いた。
当主が替わるくらいで遺恨が消えるとは考えられなかった。
「親に言われたとはいえ、元春はそんな虎穴には入ろうとしてるんだ。放っておけ
るわけじゃない。だから、あたしは言ってやったんだ。別れない、一緒について
行くって」
「まぁ~」
お姉様、素敵ととあゆは顔をときめかせる。
「元春は嫌がってたけど、粘り勝ちさ。だいたいあたしが嫁に行かなきゃ、誰が
嫁に来てくれるってんだ。知ってる?吉川家って、出雲遠征以来、嫁ぎに行きたく
ない家順第一位なんだよ」
あゆはそんな順位があることを初めて知ったが、新庄局のかっこよさに惹かれて
気にならなかった。
「それで、ご結婚されたのね」
「ん~~、なんだけど一つ問題があってね」
「元春お兄様が嫌がる以外にまだあったのですの?」
「あたしらが付き合って事、うちの両親にも毛利にも内緒だったんだよ。ほら、
くさってもあたしは熊谷の姫だからね。結婚前に男と付き合ってるって知られると
いろいろ面倒でねぇ」
「そうなのですの」
小さいときに出会ったときから隆景が傍にいて、何事にも付き合っているのが
当たり前だったあゆには、その辺はよくわからなかった。
ただし、隆景とあゆの付き合ってると、元春ときぃの付き合ってるは同じでない
ことをここに注記しておく。
「で、どうしたら互いの両親を説得できるかと思ってね。毛利の方は大丈夫だろう
けど、さすがに吉川に嫁ぐのは、いくらうちのお父ちゃんでも許してもらえそうに
なくってね」
信直自身、吉川に遺恨を持つ一人。説得には言葉より実力行使が効く派だ。
「でもぐずぐずしてる時間は無いし。それで、あたしらの覚悟を見せるために、
先に子供を作ったんだよ」
「なんと!?」
子供は結婚してからと聞かされてきたあゆには、思いも寄らぬ思いつきだ。
(っていうか、結婚してなくても子供って出来るんだ)
その事実でさえ、あゆにはビックリだった。
「で、見事に身ごもってさ。いやぁ、家中大騒ぎ。あんな取り乱した家族を見たの
は初めてだよ」
いままで放任主義で、きぃがどこに行こうと関心が無かった家族達が、結婚も
していないきぃが妊娠したことに誰の子だと慌てふためくのを見て、きぃははじめ
て彼らからもたしかに、愛されていたのだと実感できたのであった。
「そこで元春を呼んで、二人で結婚を許して欲しいと挨拶したんだ」
元春はいつもの崩れた格好と違い、きちんと身なりを整えて、真剣な表情で
きぃを嫁に欲しいと頼み込んだ。
『俺は、あの吉川を継ぎます。そして、新しい吉川を作ります』
『きぃには、絶対に吉川の嫁としてそしりを受けるようなことはさせません。
生まれてくる子にも鬼吉川の子として誇りを持てるような、そんな家を作ります』
『絶対に逃げ出しません。だから俺に二人を託してくれませんか』
「あの時の元春はかっこ良かったよ。見違えたね」
思い出したのか、うふふと新庄局は笑う。
『お父ちゃん。吉川へ行くことは、あたしが自分で決めたんだ。元春が嫌がったん
だよ。でも、あたしが行くって決めたんだよ』
『あたしと元春なら大丈夫。二人で吉川を作っていくって決めたんだ。だから、
お願い。行かせてちょうだい』
新庄局も決意の強さを熱心に父親に語った。
「それで、信直どのはどうされたの?」
「いやぁ、感極まっちゃってさぁ。おいおい泣いて、行ってこいって」
『そこまで言うなら反対はせん。行ってこい』
そう言うなり、熊谷信直は泣きながら城の傍に山の中へものすごい勢いで走り去
り、三日後、素手で仕留めたというクマを引き摺りながら帰城した。
「毛利家にもちゃんと二人で挨拶に行ったんだよ。元就様も隆元様もビックリして
たけど、子供が出来てるのなら仕方がないって許してもらえたよ」
なお、この元春の結婚話については、熊谷家文書126号所蔵の元就から熊谷家
への文が残っており、元春の所業を全く知らなかった元就の動揺ぶりが今に伝わっ
ている。
「それで結婚したんだけど、興経殿がごねてなかなか当主の座を譲らなくってね」
「あっ、それ聞いたの。郡山城で鶴寿丸殿を産んだんだよね」
「そうだよ、あの時は、城の皆に世話になってね」
その頃はまだ尾崎局は嫁いできておらず、奥向きを仕切っていた中の丸が世話を
焼いてくれた。もちろん元春は傍にいてくれたが、元就や隆元もなにかと気にかけ
てくれて、きぃは安心して出産に挑むことが出来た。
「陣痛がすっごい痛いし、鶴寿がなかなか出てこないしで大変だったけど、みんな
が支えてくれたから産めたんだ」
ちなみに、息むときのきぃの声は大きく、産屋から聞こえてくる彼女の痛がる声
や苦しむ声が聞こえる度に元春が大いにうろたえていたそうだが、その度に5人の
子を持った元就や弟妹の出産時に傍にいた体験で慣れている隆元がなだめたという。
生まれてきたのが男の子だったので、後継ぎの誕生を大いに喜び、元就はなにく
れと鶴寿丸の顔を見に来ては可愛がり、隆元も政務の息抜きにと鶴寿丸を抱っこし
たがった。
その頃のことは、ありがたく幸せだったときぃの胸に刻まれていた。
「鶴寿丸が生まれて一年くらいしてようやく元春が当主になれて、三人でこの城に
やってきたんだよ」
もちろん元就が就けてくれた元春の家来衆とその家族とともにだ。
「とはいえ、慣れない土地での生活は大変でね。吉川の人も経世殿のように歓迎し
てくれる人もいれば、若い者の中には眉をひそめる者が多くて。あたしが、中の丸
くらいに気が利けばいいんだけど、鶴寿丸を育てるのに手一杯でね。もともと
そう気が利く性格でもないし」
今回の件は、そんな自分たちの不手際が積み重なって起こった事件と新庄局は
思っていた。
「ごめんよ。巻き込んじまって。こんなことになるとは思わなかったんだよ」
「ううん。いいの。大丈夫。私もいろいろ学んだり、考えさせられたりしたりした
の」
お互い様なのよと言って責めないあゆに、新庄局は、
「あんた、ほんとにいい子だね」
この小早川の姫とて、当主交代の際にはいろいろあっただろうに、それを受け
入れ強くあろうとしている。
(吉川にもこんな姫が一人でもいたら、また違ってたかもね)
そんな話もあったという。しかしすべては過去のこと。
「今はこんなんだけど、きっといい家にするからさ。これからもよろしく頼むよ」
「もちろんなのよ。末永くよろしくなのよ」
互いの家の行く末がどうなるのか。それは歴史が語ること。
二人はただ、互いを健闘し合った。
執務室で、元春は今回の件についての報告を受けていた。
「元春様、犯人の処置をし終えました。小早川には表向きこのようにご報告を」
「わかった。隆景には来月会ったときに俺の口から詳細を話しておく」
「正直を申しまして、小早川の機転と寛大な処置には大いに助かりました」
あの矢を射られたときの椋梨の言葉で、戦の回避は成し遂げられたのだ。
「そうだな。まさかこんなことになるとはな」
吉川の若い者達の中に自分への不満を募らせている者がいることは、重々承知し
ていた。しかしまさか矛先が他所に向くとは思わなかった。
自分自身の不安と甘えが、この事態を生み出したのだ。
「今回の件は、俺の不徳のいたすところだ。これからは吉川も毛利も関係なく、
吉川のためになる者を使っていく」
幸いにもこの政情不安定さが、元春に家中をとりまとめる機運をもたらしていた。
吉川家は、代々武勇を誉れとする家。
戦の度に武勇をあげ続ければ、やがて家中は当主の下に統一はあたう。
ただし、それは負けることが許されないと言うことでもあった。
「では、周囲の警護を増やしましょう」
「いらねーよ。それこそ不信をもたらすってもんだ。突っかかってくる奴らは俺が
自分で対処するから心配するな」
「しかし」
「生半可な覚悟じゃ、吉川の当主は務まらねーよ。こっちはすべてをかけて吉川を
継ぐって決めたんだぜ」
最後まで実家を案じていた母のために、
侮蔑されるかも知れない恐怖を押して、付いていくと言った妻のために、
吉川の子として生まれたが故に、すべてを背負わざるをえない我が子のために、
元春は、新しい吉川を作ると決めたのだ。
「俺は、俺の力で、俺を認めさせてやるさ」
後に毛利を支える両川の一人、吉川元春の矜持の言葉の一つであった。
翌朝、あゆの輿が綺麗に修復されて戻ってきた。
屋根の他に傷んだ箇所も全部修復されたうえに、全体に磨きをかけられ、新品同
様になった輿をあゆは大いに喜んだ。
そして、別れの挨拶をする。
「それでは、元春お兄様、新庄のお姉様。お世話になりました」
「こちらこそ。また来月に会おうな」
「元気でねぇ。また機会があれば遊びに来ておくれ」
「鶴寿丸殿もお元気でね」
「はい。ちゃんと聞けるようにします」
他にも吉川家の者達に別れを告げ、熊谷信直にも挨拶した。
「それでは皆様、さよーならー」
「お元気で」
「お達者でーーー!!」
吉川の者達に盛大に見送られて、あゆたち一行は吉田郡山城を目指した。
「なんだか親善に行っただけなのに、いろいろありましたね」
「城に着くまで安心は出来ませんよ。まだ不穏な連中がいるかも知れません」
椋梨の言葉にぎょっとして景信は周囲を見渡すが、とくに不穏な気配は感じられ
ない。
「椋梨殿、変なこと言わないでくださいよ」
「君が気づかないだけでしょ。あんなことがあったんですから、当然吉川側も領を
抜けるまで警戒しますよ」
椋梨はなにか知っているかのような口ぶりをして、あゆの乗る輿に話しかける。
「いかがですか、あゆ姫様。乗り心地は」
「とっても快適よ。お兄様達、中も綺麗にしてくれたのよ」
あゆは楽ちん、快適とご機嫌であった。
「ねぇ、椋梨。吉川が変わったってどうやったら知ってもらえるかな?」
「それはやはり人の口でしょうね」
「じゃあ、私、いっぱい吉川のことを褒めるの」
「わざとらしいと逆に不自然ですよ。普通に今回の訪問で学んだことを話せばいい
です。それにいい話は自然に遠くまで伝わりますから、心配しなくても大丈夫です
よ」
「そうなの?」
「吉川も山陰と山陽をつなぐ街道が領内を通っていますからね。周辺の状況が変わ
れば人も嫌でも通りますよ」
「うん。たくさんの人が通るといいね」
その要となる銀山の行方を決める戦いがはじめるのは、数年後のことである。
「ところで、元春様から聞けたんですか?」
「なにを?」
「隆景様のことですよ。もともとはそれが目的でしょう」
「あー、そうだったの。挨拶やら鶴寿丸殿のことが大変で、すっかり忘れてたの」
どうしよう~~~と頭を抱えるあゆに、椋梨はやれやれまだまだですなと頭を横
に振ったのであった。
あとがき
吉川元春の妻・新庄局の実名は、不明です。作中の「きぃ」という名前は、吉川家文書
第1217号収録の新庄局が発したとされる文に「き」と書かれていることから、
それを参考にしました。
出雲遠征後の吉川家の状態は、私の創作ですが、出雲遠征で多くの大内側の将兵が
死んだことは事実であり、遺恨は会ったのではないかと考えこのように書きました。
吉川元春と新庄局の結婚エピソードは、新庄局の顔が不器量であり、それを元春が
気に入って元就に無断で結婚の申し込みをしたというのが有名ですが、それは
陰徳太平記の記述であり創作と言われています。
実際の所は詳細はよくわかっていませんが、元春が元就に無断で熊谷家に結婚を申し込む原因を作ったことは事実で、熊谷家文書所蔵第126号の元就から熊谷家への返信に、元春が熊谷家にしたことについて、父親である自分は全く知らないし、親の面目を失った。元春は犬のような奴で・・・という記述があります。
私はこれを、無断で結婚を申し込むだけで、犬のような奴と文に書かれるのに違和感がありました。この時代、政略結婚ですので、政略不利なら婚約破棄や離婚もありましたので。
この時代の犬は野良が多く、子犬はその辺で勝手に作ってるでしょうから(犬は安産の守り神灯されていましたし)、これは元春が犬のように、熊谷家の姫に手を出して懐妊させたことを
言っているのではないかと考え、作中では元春と新庄局をおめでた婚としました。
第126号の文は天文16年7月で、鶴寿丸のちの元長は、天文17年生まれだそうですので、つじつまは合うかと。
誰か学者の先生が見解を出してくれたらありがたいです。