「ふぁ~、眠いのよ」
夜遅くまであややと宴会して、うっかりそのまま寝てしまったあゆは、小早川家
の屋敷で目が覚めた。
もともと昨夜は屋敷で泊まる予定で会ったので問題は無いが、すっかり日が高く
なってしまっている。姫としてあるまじき寝坊だ。
昨日の広間に行ってみると桜やしつらえはすっかり片付けられてしまっていた。
けれど、部屋の隅の落ちていた桜の花びらが、昨夜の名残を思わせる。
「お姉様、元気になったみたいだけど」
彼女はどうするつもりだろう。
一度は止めた山口行きだけれど、あんな話を聞かされたらもう反対はしづらい。
(本当に行っちゃうのかな)
行ったらもう二度も彼女には会えないだろう。
うらら姫と幸鶴丸は永遠に母を失うことになる。
「え~~ん、そんなの嫌なの」
あゆだって、兄・繁平とは生きているし、望めば会えるとは言え、別れるのは
辛かった。
大好きな人にずっと会えないなんて辛すぎる。
「大内義隆っていう人が、生きていればいいのに」
そんなあり得ないことをブツブツ言っていると、屋敷に客人が訪ねてきた。
「尾崎局の弟の内藤隆春です。こちらの屋敷でお世話になっているという我が姉に
会いたく、参りました」
「お姉様には会わせないの。とっとと帰って!!」
ぷんすかしながら帰れというあゆをまぁまぁと景信がなだめる。
「お方様。せっかく訪ねてきてくださったんですから」
「ダメーーー!!お姉様がこうなったのもこいつのせいだもの。絶対に会わせな
いんだから!!」
つーんとふくれっ面するあゆに景信は参り果てる。
なんといってもこの屋敷の主人はあゆであるので、あゆがダメと言ったらダメな
のだ。
「内藤殿。このとおりお方様のご機嫌が悪いので、今日の所はお引き取りを」
「そこをなんとか。小早川のお方様、お願いいたしまする」
謙虚に深々と頭を下げる隆春を景信は思わず見直す。
いくら主君や身分の高い相手とはいえ、大人が子供に対し頭を下げることは、
慣れるまでは多少なりとも葛藤がある。
しかし、この内藤隆春はそんなものを一切見せずに、守護代の息子である自分よ
り家格が下の家、しかも姫であるあゆに対し、頭を下げて見せたのだ。
(この男、意外に大物なのかも)
この時の景信の感は、後に当たることになる。
「んもう、ダメって言ってるの。景信、こいつを屋敷からたたき出して」
「待って、あゆ姫」
奥の部屋からあややが出てきた。あゆが騒ぐ声を聞きつけたのかも知れない。
「お願い、弟と話をさせて」
「でも、お姉様」
「お願いします」
あややにまで頭を下げられ、あゆはしょうがなく姉弟の対面を許した。
屋敷の広間にて、あややと隆春は対面をする。
念のためにと言うことでこの場には、あゆと景信が同席した。
「隆春、私は・・・」
「姉上、本日はこれをお渡しに参上いたしました」
あややの言葉を遮るように、隆春は持ち運べる大きさの法華塔を姉に差し出す。
「父上から預かりました。中には、おさいの方様からお預かりした大内義隆様の
遺髪を納めてあります」
弟の言葉を聞くなり、あややは塔の扉を開け、中に納められていた遺髪を取り
出す。
「よし・・・たか・・・さま・・・」
あややは涙をこぼして、遺髪を胸に強く抱きしめた。
「内藤隆春、それはどうやって手に入れたの?」
あゆの質問に、隆春は、
「姉上の元から山口に帰った後、義隆様の遺品がないかあちこち探し訪ねたんです。
でも、陶晴賢の襲撃で義隆様の館は焼け落ちてしまって、なかなか見つからなくて」
義隆の最期の場所である大寧寺もまた、義隆自害後に焼け落ちた。焼け跡は、
陶の手のものにより厳重に警護されていて到底近づけず、遺品を探しなどとても
無理だった。
そんなおり、義隆の側室であり謀反発生時も義隆と共に行動したおさいの方が
落ち延びて光厳寺で出家したと聞いて、密かに訪ねたのだ。
「最初は、晴賢の手の者かと警戒されたけど、姉上のために来たと話したらおさい
の方に会えたんだ」
そして、隆春はあややに渡して欲しいと、義隆の遺髪を託されたのだ。
「姉上、おさいの方は義隆様と最期までお供をしようと思ったけど、姉上に自分の
遺髪を渡して欲しいと義隆様に頼まれて、途中で別れたと言ってたよ」
大内義隆は、最期まであややを気遣っていたのだ。
「父上からも仕方が無かったけど、姉上には悪いことをしたって。この法華塔は
姉上へのお詫びだってさ」
「父上は・・・勝手ね・・・」
「そう言うなよ。父上は姉上のこといつも心配してたぜ」
二人の父・興盛は、家を出て行ったあややを心配して、貞子を始めとする奥向き
の女達に娘をお頼みいたします、と頭を下げてまわり、進物を贈るなどしていたこ
とをあややは知らない。
あややが屋敷を賜ったときも屋敷の周囲に密かに警備の者を配置して、不埒な者
が屋敷に近づかぬようにしていた。
あややはずっと父の愛に守られてきたのだ。
「自分の子供の中で一番頼りになる子だって。男の子だったら間違いなく後継ぎに
したってさ。僕にいつも姉上を見習えって言ってたんだよ」
他の兄たちもあややの素質を見抜き、男でなくて良かったと言っていた。
「でも今の姉上は、義隆様恋しさ、陶晴賢憎しで、我を見失ってるって。父上から
の伝言だよ。仇を討ちたければ、男のやり方ではなく、女のやり方でやれってさ」
(女のやり方?)
どういう意味だろうとあゆは思ったが、話の腰を折ってはいけないような気がし
て黙っておく。
「それは・・・・出来ないわ」
やり方を知っているらしいあややは、目を背けて断る。
「これは、私個人の望みだもの」
「けど、姉上。うだうだしてたら誰かに先を越されるぜ」
隆春は強く警告する。
「岩見の吉見は反陶の最先鋒だ。他にも背面服従の奴らはたくさんいる。姉上は
知らないだろうけど、山口では陶晴賢の強引な政策に日に日に反発の声が高まって
るんだ」
そもそも大内家の家中では、大内義隆の政策に反発があったのであって、大内義
隆個人への反発はあまりなかった。そのため、なにも義隆本人を殺さなくても、と
いう声も多かった。
「陶晴賢自身の人望は元々薄く、新当主の大内義長に家中をまとめる力は無い。
いずれなにかのきっかけで政変が起こる。その時、晴賢が勝っても負けても、
あいつは二度と姉上の手の届かないところへ行くよ」
「・・・・よく事情はわかったわ、隆春」
あややは、遺髪を法華塔の中に納める。
「父上には、あややはあややのやり方を貫きますと伝えてちょうだい」
「姉上・・・」
「そして、あややは毛利家の女となりました。毛利のために役に立つなら内藤家に
力を貸しましょうと」
「・・・・・!」
姉の言葉を受けて隆春は、
「わかりました。必ず伝えます」
と告げた。
隆春が帰った後、あややは部屋にこもり、郡山城に帰るあゆにしたためた文を
差し出す。
「あゆ姫、これを隆元に渡していただけますか」
「うん、いいけど・・・あの、そのお姉様・・・」
預かった文の内容について不安そうにするあゆに、あややはにっこりと微笑む。
「心配しないで。明日、城に帰るという内容だから」
「えっ!?」
あゆの顔が日向の太陽のように明るくなる。
「本当!?」
「ええ。長くお世話になりました」
「ううん、いいのよ。絶対に必ず渡すね!!皆にも伝えるね」
じゃあ明日と、あゆは大きく手を振って城へ帰る輿に乗り込んだ。
「景信、みんな急ぐのよ。早く隆元お兄様や皆に伝えなくっちゃ」
「何をです、お方様?」
横を付いて歩く景信が尋ねる。
「お姉様、明日お城へ帰るって」
「本当ですか!?城へ急ぎましょう!!」
あゆ姫一行は、駆け足で郡山城へ急ぐ。
その郡山城へ近づくにつれ、夕方のカラスが奇妙に多く上空を舞い、城のあちこ
ちの屋根に止まって鳴き声を上げていた。
「なんか、カラスが多いの」
「まさか、隆元様の鬱鴉召喚!?」
「景信、なにそれ!?」
説明しよう。鬱鴉召喚とは、生来心優しく生真面目な性格の隆元が、心の鬱積を
ため込み続けたあげく、それに呼応した鴉たちが城に寄り集まってくると言う現象
である。
あゆの輿が城に到着するなり、城の者達が出てきて輿を取り囲んだ。
「あゆ姫様、尾崎局様はいつ帰ってくるですか!?」
「せめて文ぐらい、隆元様のためにもらってあげてください!!」
「あなただけが頼りなんです!!」
大の大人達が泣きそうな顔をして頼み込んでくるのを、「落ち着くのよ~~!」と
あゆは困りながらたしなめる。
「下がってください。お方様が歩けないでしょうが。お方様、ここは私に任せて
中に入ってください」
景信に人だかりから守ってもらいながらあゆは、屋敷に上がった。
「あゆ姫様!!首尾はいかがでございました!?」
中の丸の参り果てた顔であゆを出迎える。
「御局様はなんと!?早く帰ってきていただかねば、わたくしどもは、もう限界で
ございます!!」
うらら姫の他に幸鶴丸も泣き止まず、愚痴吐き元就のくどさは日に日にひどくな
り、隆元までこれで、奥を差配する中の丸もすっかり疲れ果ててしまった。
「中の丸、隆元お兄様はどこ!?お姉様からのお文をお預かりしたのよ」
それを聞いた瞬間、中の丸の顔がこれ以上無く明るくなる。
「本丸の執務室におられます。お急ぎくださいませ」
「それとお姉様のお部屋もお掃除しておいてね」
「は?」
「お姉様、明日帰ってくるって!!」
お願いねー!と言いつつ本丸に向かって走って行くあゆを見送った瞬間、安堵の
あまり中の丸はその場に倒れた。
本丸では、一応警護の者に止められたが、尾崎局からの文を持ってきたと告げる
とすぐに隆元の元まで通してくれた。
「あゆ姫様。隆元様、あゆ姫様でございます」
隆元の執務室前に張り付いていた赤川元保が、かけてくるあゆ姫の姿を見るなり、
道を開けて執務室の戸を開けてくれた。
「隆元お兄様、きゃーーー!!落ち武者!?」
「やぁ、あゆ姫か」
中にいた隆元のどこの凄惨な戦場帰りかと思うほどに生気の無い顔と身にまとう
夜のお墓のような不気味な気配にあゆは悲鳴を上げ、赤川元保が弁解する。
「あゆ姫様、落ち着きを。隆元様は昨夜から一睡もしていないのです。顔色の悪さ
はご容赦ください」
「顔色が悪いにしても、なんか恐すぎるのよ」
「ははは。ごめん。いろいろあってね。それでどうしたの?」
「う、うん・・・。これ」
怯えながらあゆは預かってきた文を隆元に渡す。
「お姉様から預かってきたの。読んでみて」
「あややから・・・・・・、わかった。後で読むよ」
せっかくのあややからの文だというのに、すぐに読もうとしない隆元にあゆは
不満をぶつける。
「え~~、今すぐ読むのよ」
「いや、心の準備がね。内容次第で私は亡き母上に会いに行きかねないから」
「何言ってるのよ。お姉様、明日帰ってくるのよ。お墓参りに行ってる暇なんてな
いのよ」
「え!?本当に!?」
隆元は慌てて文を読む。
その瞬間、
「きゃーー!?まぶしーー!?」
「ややっ」
郡山城に光の柱が立ち上がると、たちまちまき散らかされていた暗い空気をかき
消し、寄り集まった鴉たちを追い払った。
「なんだったの、今の光?」
「どうやら、隆元様の鬱が浄化されたようですな。あゆ姫様、ありがとうございま
した。主君に代わってお礼申し上げます」
先日会った時と打って変わって謙虚な態度の赤川元保にあゆは戸惑った。
***********
翌日、侍女のあやに手伝ってもらいながらあややは、使っていた部屋を綺麗に
片付けた。
「本当にあゆ姫にはお世話になって」
「はい。誠にようございました」
この部屋で過ごした時間は、あややにとって貴重な一人で考えることが出来る
時間だった。この部屋では、毛利の当主の妻でもなく、大内と内藤の姫でもなく
あややとしていることができた。
この部屋で選んだ道を、それがどのようなことをもたらすにしても、あややは
決して後悔しないと決めた。
「お姉様、帰る支度は調いましたのーーー!?」
あゆ姫がやってきた。
「ええ」
「よかった。じゃあこっちに来て欲しいの」
あゆに誘導されてあややは外に出ると、そこに輿の姿はなく、そのまま川縁の方
へ案内される。
「今日はこれでお城に帰ります」
あゆは、じゃ~んと舟橋に止められた小舟を紹介する。
「お姉様、ずっとお船に乗ってないって言ってたでしょ。これに乗って市近くまで
行って市の中を通って帰るの。楽しそうでしょ?」
ちゃんと隆元お兄様の許可は取ってあるよと言うあゆに、あややは、
「舟なんて久しぶりだわ。市にも行ってみたかったの」
少し心配そうにするあやに大丈夫よと告げて、あややは小舟に乗り込んだ。
「いってらっしゃいませ」
あやに見送られ、あゆとあややを乗せた小舟は、市に向かって出発した。
「いい風だこと」
天気が良いこともあって、すこし冷たい春の風が心地よい。
太郎丸側の山には、桜が咲いているのが見え、郡山城側の岸辺にも春の草花が
たくさん咲いているのが見える。
景色を見るのに邪魔にならないようにこの舟に付いてくるのは、護衛の者達だ
ろう。
山口でも船遊びと称して、川や庭の池に豪華な装飾を施した舟を浮かべてその上
で楽を奏でたり、歌を詠んだりして楽しんだ。
でもこうして粗末な舟で、ただ風景を楽しみながら川を下るのも悪くない。
航路が短いせいか、あっという間に市近くの船着き場に到着した。
でも、充分だ。
「ありがとうございました」
「ありがとうなの」
市では、盛詮とあゆ姫付の景信が待っていてくれた。
「お待ちしておりました」
「短い船旅はいかがでしたか?」
「ありがとう。とても楽しめたわ」
「じゃあ、次は市の散策なのよっ」
出発なのよーー!!と張り切るあゆを先頭に4人は、市の中へと入って行った。
「なかなか賑やかね」
もちろん山口で立っていた市とは規模も品質も比べものにならない。
それでもこの山の中では、活況がある方だ。
そして、ここがあややの住まう国の市なのだ。
「お姉様、おやつ食べない?ここのおやきおいしかったの」
大内家の姫で当主の妻が食べ歩きなど普段ならもってのほかだが、
「そうね。いただきましょうか」
買ってもらったおやきをあややは頬張る。
「おいしい」
中身は山菜で、素朴な味だ。
大内家では異国の大国・明と勘合貿易を行っており、輸入された砂糖が市場でも
手に入りやすい山口では、砂糖入りの餡子を包んだ甘いおやきが売られていた。
ここでは砂糖なんて手に入らない。
蜂蜜や水飴ですら貴重で、甘いものは滅多に食べられない。
でもこれが、あややの住む国の味なのだ。
この味も悪くない。
「おい、向こうで落首を見つけたぞ」
「また大内だろ。見に行こうぜ」
下衆どもの声が聞こえる。
「これもどこも同じね」
「お姉様・・・」
同じ声が聞こえたのか、ヒヤヒヤしているあゆにあややはにこりと強く微笑む。
「こんな声をいちいち気にしていては、務まらないわ。受け入れて、流す。覚えて
おきなさい」
「・・・はいっ」
あややの力強い声に、あゆも強い声で返事をした。
市を散策し終えて、いよいよ城へ向かう。
輿を呼びますと言われたが、すぐそこだからと歩いて向かった。
「御局様じゃ。皆の者、御局様のお帰りじゃーーー!!」
「お帰りなさいませ!!」
城門に付くなり、城中の者があやや達を出迎えてくれた。
「よかった、帰ってきてくださって」
「もうどうなることかと」
「ただいま、みんな。心配をかけましたね」
尾崎丸に行くと中の丸が両手を広げて帰りを待っていた。
「御局様。よくぞ、よくぞ、お帰りいただきました。もうわたくし、どうなること
かと」
「ごめんなさい、中の丸。負担をかけたわね」
「わたくしのことなど、どうか若様、姫様にお会いしてくださいまし」
中の丸が案内する前に、乳母に連れられた幸鶴丸とうらら姫がやってきて、母親
を見るなり抱きつき泣き出した。
「ははうえ~~~~!!」
「ふぎゃっ、ふぎゃっ」
「うらら、幸鶴。二人ともごめんなさいね」
ぎゅうっと力強く抱き付いてくるこの愛しい小さな宝物をあややは心から慈しん
だ。
「あやや!!」
知らせを受けて飛んできた隆元が、あややを見るなり、子供もろとも彼女を抱き
しめる。
「あなたが人目が」
「かまわない」
「ちちうえ、くるしい」
「ごめん、ごめん。でももうしばらく、父に母を堪能させてくれ」
愛娘の抗議も聞き入れぬほど隆元はあややの帰りをうれしがる。
そんな様子を見て、あゆは、
「やったのーーー!!」
がんばりました、えっへん!!と胸を張ったのだった。
***********
「はぁ~~~~、本当に良かったの」
連日の郡山城と太郎丸の小早川屋敷の往復とあややのお世話で少々疲れたあゆ
は、ここのところ郡山城のお部屋でのんびりと過ごしていた。
侍女のあやに聞いたところ、郡山城に帰ってからもあややは落ち着いており、
大内義隆や山口のことを思い出して泣くようなことは、今のところ見られないとの
ことだ。
山口に帰る様子もなく、今までの分を取り返すかのように子供達と過ごし、疲れ
て休んでいる中の丸に代わり奥向きを差配している。
隆元とも、隆元が暗くないので今のところ大丈夫そうだ。
「やっぱり尾崎のお姉様は、隆元お兄様のことをとってもお慕いしてるのね」
そうでなければ、毛利に残ることを選ばないだろう。
ふと、あゆは隆景のことを思い起こす。
隆景のした仕打ちがひどくて、あゆは隆景のことを慕っていないと言った。
(でも・・・・)
よくよく考えてみれば、あゆも至らないことがあったのかも知れない。
あの文だって、ちゃんとすぐに見せれば隆景もそれほど怒らなかったはずだ。
(でも、隆景様お話ちゃんと聞いてくれないのよ)
なんでなんだろう。皆にもそうなのかなと思ったとき、あゆは、
「私、隆景様のこと、何も知らないのよ」
ということに気づいた。
隆景は、竹原小早川を継いだ毛利から来た人で、自分の兄より年上で、みんなこ
の人なら小早川を率いていけると認めたという人しか知らない。
毛利では、隆景はどう言う人だったのだろう。
そう思ってしまったら、あゆは居ても立っても居られなくなった。
「隆元お兄様、ごめんなさい、お仕事中に」
「世話になった君なら構わないよ。私に何か用かな?」
毛利での隆景の人となりが知りたくて、いてもたってもいられなくなったあゆ姫
は、隆元に面談を求めた。陶晴賢の謀反以来の政情不安への対応に加え、ここ数日
のあややが不在が重なり、あまり政務に手がつけられていなかった隆元はその挽回
に追われていたが、あゆ姫ならと時間を割いてくれた。
「あのね、毛利では隆景様はどんな人だったの?」
「隆景かい?」
「うん。私、あんまり隆景様のこと知らないって気づいて。特に毛利の時のことは
全然」
「そうだな、あの子は年相応に活発な子だったけど・・・」
そう言うが隆元はすぐに申し訳なさそうな顔をする。
「すまない。実は隆景が生まれた頃は、私は後継ぎとしての教育で忙しくてね。
あの子が物心つくときには私は山口へ人質に行ったし。山口から帰ってきても初陣
などで忙しくて。落ち着いたと思ったら今度は隆景が竹原小早川へ養子に行ったし
ね。あまり一緒に過ごしていないんだ」
隆元と隆景は10歳も年齢が離れており、兄弟として仲良く過ごすには少し年齢
の開きがあった。
「隆景の人となりは、私より父や弟の元春の方が詳しいと思うよ。父に取り次ごう
か?」
「あ~~~、元就様はちょっと」
実はあゆは元就には隆景と一緒に一度しか会っていない。その当時あゆがすれて
いたこともあり、元就には好印象を抱いていなかった。
「一人では難しいかな。家族としてはとても家族思いの優しい人だよ」
「でも~~、なんか話が長くてくどそうなの」
一度もらった文がそうだったので、あゆはなんとなくそんな気がした。
「あ~~、それはあるね」
それは唯一の元就の欠点であり、家族の内でもそれさえなければと言われるほど
であった。
「なら、元春に聞くといい。隆景とは歳が一つしか違わないし、よく一緒に遊んで
たそうだから」
「元春お兄様は、どこにいるの?」
「吉川家の当主だからね。吉川の城・日山城に居るよ。来月の終わりにこの城に
来る予定だからその時に話せばいいよ」
そうだ、せっかく来たのだからと隆元は、近習にある者を連れて来るようにと
命じる。
「隆元様。八幡原にございます」
よく来たと隆元は、やってきた一人の男をあゆに紹介する
「あゆ姫、この者は隆景の要請によりこの度、三原の要害に派遣することになった
毛利の被官・八幡原元直です」
隆元に、あゆ姫は小早川家の姫で隆景の妻であると教えられると八幡原は、
これはしたりと、深々とあゆに向かってお辞儀をした。
「八幡原にございます。小早川のお方様。お目通りいただけるとは、恐悦至極に
存じます」
「あゆである」
あゆは挨拶を受けながらも
(小早川の大事なところに毛利の人が配されるなんて)
と思った。
三原は、沼田川の河口にある海への出入り口である。
三原を発展させれば高山城と連携が取れ、小早川水軍を復活させることが出来る
と、田坂の爺やその仲間達が口にしていたのを聞いたことがある。
けれど人材不足で三原を任せられる者がいなかった。
「あゆ姫、八幡原は優秀な人物です。山育ちですが、海に並々ならぬ興味を持ち、
必ずや小早川の役に立ちます」
「恐れ多うございます」
隆元は小早川に有用な人物を配したと謳うが、あゆは「はい・・」と返事するこ
としか出来なかった。
そんなあゆに対し、隆元は、
「八幡原よ。おまえは毛利から派遣するが、小早川の命を第一と考え、小早川の
ために尽力せよ」
それには、八幡原もよろしいのですかという顔をするが、隆元は、
「構わん。お前の主君は小早川家当主小早川隆景であり、ここにおられるあゆ姫で
ある。二人に忠義を尽くすように」
「ははっ。あゆ姫様、この八幡原、小早川ために誠意を尽くしまする」
再び、深々とお辞儀をする八幡原を見て、あゆは隆元を見る。
「今回の件における、私からのささやかなお礼です。どうかお受け取りください」
「・・・・はい。ありがとうございます」
あゆは、八幡原に向き直り、改めて挨拶する。
「八幡原よ。そこもとに三原を預けます。これからよろしくなのよ」
「ははっ。ありがとうございまする」
小早川の姫のお墨付きを得て、八幡原は晴れて三原在番の任に付いた。
「・・・・それで、さっそくあゆ姫様より御用を賜りました。こちらを」
沼田・新高山城で小早川隆景に対面した八幡原は、主君の姫から預かった文を
隆景に渡す。
「あゆ姫は、そなたに三原を任せると申したのだな?」
「はっ、確かに」
「わかった。姫が決めたのなら異議はない。そなたに三原を任せる」
「ははーっ」
八幡原を下がらせ、隆景はため息をつく。
(確かに人事について相談はしたが、まさか姫に話を持って行くとは)
兄上も人が悪いと隆景は愚痴る。
女は表向きに口を挟めないが、全くというわけではない。
婿養子の身で宗家の姫たる妻に頼まれれば、それなりの配慮はしなくてはならな
い。しかし、決められてしまえば毛利の手前もあり断れない。
(確かに優秀そうな人物ではあるが・・・・)
実際に八幡原は優秀で、三原の発展のために尽くし、小早川への忠義が深いこと
もあって、隆景も後に、『兄は良い人を紹介してくれた。あゆ姫も拒まなくてよ
かった』と、この件を認めることになる。
「あゆ姫からの文か・・・」
毛利で一騒動あり、その解決にあゆが奮闘したことは、隆景の耳にも届いており、
父も兄もいったい何をしているんだと憤慨した。
しかし、抗議する間もなく騒動は終結したと知ってよかったものの、あゆ姫の
状態が心配だった。
隆景が覚えているのは、不機嫌なあゆの顔だ。
此度の件で、さらに不機嫌になっていたらどうしようと思いつつ隆景は文を読む。
《隆景様、お元気ですか。吉田では桜が満開になりました。沼田の桜はもう咲きまし
たか。お母様がたくさん干物を送ってくださいましたが、新鮮な海のお魚が恋しい
です》
と、いたって幼い姫らしい文言が並ぶ。
字使いも軽やかで、地面からは不機嫌さは感じ取れない。
まるで、あゆとのの文のやりとりの練習に付き合っていた頃のような文だ。
《あゆはこちらに来ていろいろ学びました。ここであゆは、隆景様の事をいろいろ
知らないことがわかりました。お慕いしている気持ちはわかりませんが、あゆは》
「《隆景様ともっとたくさんお話ししたいです》か・・・・」
隆景は文を文机に起き、部屋から庭に出る。
そこから見える新高山城付近の山にも桜が植えられており、花の盛りは過ぎてい
たが確かに咲いていた。
「咲いていたのか、気づかなかった」
あゆ達と出会って以来、隆景は桜の時期になると毎年彼らと花見を楽しんでい
た。けれど、山口に行ってた年とあゆが居ない今年は、桜など目に入らなかった。
「春・・・か・・・」
爽やかな風が吹いて、桜の花びらが舞い散る。
その風は、隆景の胸にも晴れやかな思いを吹き込んだ。