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幻想庭園

いろいろ書き散らしてます。 なお、掲載している内容につきましては、原作者様その他関係者様には一切関係ありません

流れの果て-小早川異聞- 第3話  本支合流

 天文19年。毛利家の周囲で次々と粛清が起こる。
 その手は、小早川家にも及んでおり、沼田小早川家の当主繁平は、
決断を迫られていた。




 天文19年2月。
 長年にわたり毛利家と大内氏を悩ませていたとある家に関わる問題について、
ついに決着した。
「繁平様。吉川家宗家の当主問題ですが、ついに毛利元就の次男元春殿が当主に
なられたそうです」
 高山城の広間にて当主の座に座る繁平に椋梨が奏上する。
「往生際が悪い興経殿もついに観念したか」
「それには同意しますよ、田坂殿。興経殿は妻子を連れて深川に隠居なさったそう
です」
「深川、毛利の領地か・・・」
「田坂殿、そこは別に良いのではありませんか?8年前の出雲遠征の際、興経殿が
尼子に寝返ったせいで我々側は総崩れとなり、正平様も亡くなられたのです。繁平
様、吉川興経殿はいわば我々の仇でございます」
「なるほど、父上の・・・そうか」
 繁平は、静かにつぶやく。
 吉川家宗家の当主問題は、その興経の寝返りに激怒した大内義隆が、吉川領を
毛利元就に与えるとしたことにより勃発した。
 吉川家は、毛利元就の今は亡き正妻妙玖の実家であることから元就は、次男の
元春を入れることに決める。 
 吉川家中は、興経派と毛利派に真っ二つに分かれ、複雑な思惑が絡みあった末、
興経は元春に家督を譲ることを了承したものの、今度は自身の隠居後のことについ
て様々な条件をつけて吉川家の居城日野山城に居座り続けたため、実際の家督承継
になかなか至らなかった
 しかし、毛利側はついに興経を日野山城から追い出すことに成功したのである。
「元春殿はまだお若い。当然、父親の毛利元就が後見をするはずじゃ。となれば
実質、吉川家は毛利の物になったのも同然。いけませんぞ、繁平様。毛利が次に
狙うのはこの沼田小早川家です」
 田坂全慶は繁平に食いつくように進言する。
「毛利元就が、なぜ竹原小早川に隆景殿を養子に入れたのか。それは水軍を手に
入れるためです。口惜しきことながら竹原小早川の水軍は強力ですからな」
 小早川家は、古くから小早川水軍を組織しており、沼田家では沼田川河口の三原
を拠点に周囲の瀬戸内の島々に領地を持ち、対岸の河野によしみを通じていた。
「いま瀬戸内の海では、村上らが幅を利かせておりますが、我らの名が消えたわけ
ではありません。沼田を手に入れれば、三原が手に入る。三原は竹原より遙かに
良港です。毛利元就は、目的のためなら手段を選ばぬ男。ありとあらゆる圧力をか
けてきましょう」
 なればこそ繁平様を全力でお守りせねばとくだを巻く田坂全慶に対し、椋梨弘平
は冷静に告げる。
「ならばこそ、こちらから手を差し伸べるという手もあります。繁平様、いかがで
しょう、いっそのこと小早川すべてを隆景殿にお任せしてみるというのは」
「な、何を言うのだ椋梨!!」
 椋梨の突然の提案に、田坂は牙をむく。
「貴様、小早川を無くす気か!?」
「私は、お任せすればと言っただけですよ、隆景殿は竹原小早川の当主。小早川が
無くなることはありません」
 椋梨は繁平に向かって拝謁する。
「繁平様、この椋梨弘平、慎んで申し上げます。竹原の当主隆景様を養嗣子となさ
り、ご当主の地位を譲位なさいませ。隆景様は誠実なる御仁です。あの方を掲げれ
ばご実家の毛利家の助力も得られ、この混乱の中を小早川家は生き残ることが出来
ます。なにとぞご思案ください」
「繁平様、椋梨などの言うことなど聞いてはなりません」
 田坂全慶は強い口調で訴える。
「椋梨は、前々から乃美と組み、この小早川を手土産に毛利に与し、高い地位を
得ようとしているのです。毛利は小早川のことなど毛頭ありません。言いように
使われて、いずれ消えるだけです」
「田坂よ、そなたこと繁平様を取り込んで、沼田家中をいいようにしようとしてい
るのではないか?」
「なにおぅ!!」
 椋梨の言い分に激高した田坂全慶は、椋梨につかみかかる。
「やめて、二人とも。喧嘩はダメ!!」
 繁平に叱られ、二人ともとりあえず矛を抑える。
「二人の言い分はわかったよ。ありがとう、田坂の爺。椋梨。いつも僕たちの心配
をしてくれて」
 繁平にはわかっていた。この二人の言い分は正反対だが、根っこの部分は同じで
あると。
「今後のことは、よく考えてから決めるよ。少し待って」
 繁平にそう言われて、二人は平伏した。



 縁側にゴツゴツと木の床に何かぶつかる音と足音が一緒にする。
 繁平は、手に持った杖で行く先の地面を確かめながら縁側を一人で歩いていた。
 今までは、田坂全慶か彼が手配した小姓に手を引かれなければ、盲目の繁平は
一人で歩くことが出来なかった。
『これを差し上げましょう。少し訓練が必要ですが、慣れれば一人でどこへでも
歩けるようになりますよ』
 杖をくれたのは隆景だった。
 あゆいわく、杖には小早川家の家紋左三つ巴が彫られているという。確かにそん
な手触りがあった。
「母上、よろしいでしょうか」
 繁平は、母の東殿を訪ねた。
「まぁまぁ、繁平殿。お一人でここに。ようよう頑張らなされた」
 東殿は、うれしくもやや心配な母の顔で繁平を呼び寄せる。
 繁平はこの母が好きだ。自分が盲目となっても見捨てず我が子として愛し、時に
は、当主代行をするなど繁平を支えてくれた。
「母上、あゆが嫁に行ったら寂しいですか?」
 繁平は率直に母に尋ねた。
「そうねぇ、あの子は殿が残してくれた子だもの。なによりあの可愛い顔が見えな
くなるのは寂しいわ」
 あゆは、正平亡き後東殿の生きる支えであった。産んだ後は、愛らしいあゆの
成長が沼田者達の支えであり、高山城を見たことがないあゆに城を見せてあげよう
というのが、高山城帰城運動の励みの一つであった。
 いまも城に仕える者達にとって、城中動き回るあゆに会うのは、迷惑でもあり、
楽しみでもある。
 あゆは愛想が良く、城の者達にきちんと挨拶をする。偉ぶらないし、本当に困っているときは邪魔をしない。城の門番達などは、あゆがまったくやってこないと
寂しいという始末だ。 
「でも、姫はいつかお嫁に行くもの。せめて家がしっかりしているときに嫁がせて
やりたいとは思っているわ」
 姫が、良い嫁入り先を見つけられるのにも、婚家で何事もなく過ごせるのにも
本人の資質はもとより、実家がしっかりしていることが重要だ。
 この戦乱の世で、いざというとき頼りになれる実家がないというのは辛いことだ。
(そうだよね・・・)
 この母に確かな実家はもうない。沼田小早川家(ここ)が母の家だ。
「わかりました。ありがとうございます。母上」
「繁平殿」 
 東殿は、母として何か察したのか、優しく覚悟を携えた目で息子を見る。
「母、いつでも繁平殿のお味方ですからね」
「はい」
 繁平にとって、母のその言葉だけで充分だった。
「お兄様、お仕事終わったの?」
 縁側からひょこっとあゆが顔を出す。その傍には、あゆの乳母が付いていた。
「姫や。もう手習いは終わったのですか」
「はい。お母様、あゆは、千文字を半分まで覚えたのです」
 千文字とは千語の漢字を使った漢文で、漢字を思えるための当時の教科書のよう
なものである。 
「まぁ、もう半分も。あゆは賢いわね」
 東殿は、あゆをこちらへおいでと抱き寄せ頭を撫でてやる。
「でも、庭訓往来は難しいのです、まだよくわかんないのです」
「大丈夫、いずれわかりますよ」
 庭訓往来は、この頃に成立したとされる季節やこの頃の一般常識とされる行事の
際などに交わされる手紙の例文集である。
 文は、重要な交流や外交手段のため、武士には必須の教養だ。
「はい。あゆは、はやく覚えてお兄様のお役に立つのです」
 千文字も庭訓往来も、武士の子弟どちらかといえば男の子が覚えるものだが
盲目の繁平には学べない、読めない、書くことも出来ない。
 そこであゆが、
『私が、お兄様の代わりに読んで、お文を書くのです』
 と言ったのだ。
 田坂は、姫のやることではないと反対したが、繁平が教えてやれと許し、東殿も
繁平の代わりに文を出すことがあることから、姫にも学は必要と後押しし、あゆ
は教育を受けることになったのだ。
「でも、女の子は本来仮名文字ですからね。仮名文字の文の書き方もきちんと覚え
るのですよ。それから和歌もね。小早川は鎌倉以来の名門、歌も読めねば」
「はい。それからお弓のけいこも頑張るのです」
 むふぅと気ばるあゆに、東殿は少し複雑そうな顔を見せる。
「姫や。武芸は殿方がするものですよ。怪我をしたら大変だわ」
「でも、じいやは、上手だってほめてくれるのです。あゆは筋が良いのです。」
 やると決めたら徹底的にやる性分の田坂全慶は、あゆ姫に武士と同様の教育をす
るのが繁平様のご命令と、あゆに武芸を本格的に教えこむことにした。
 薙刀は、あゆがまだ小さいので早いが、弓なら出来ると3日に一度は、自分の
屋敷であゆに弓のけいこを施していた。
 今は、毎日弓をひく練習だけだが、田坂全慶が褒めてくれるせいもあって、あゆ
は、飽きることなく励んでいた。
「あゆは、巴御前のようになってお兄様やお母様や小早川のみんなを守るのです」
「あゆ姫、そのような・・・」
「母上、あゆは僕のために頑張っているだけです。泣かないで」
 東殿の声色で母の気持ちを察した繁平は、何か申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「そっか、あゆは巴御前になりたいのか」
「あゆは、強くなりたいのです」
「あゆは、充分強いよ。だから、大丈夫」
 その時繁平は、あゆの声が聞こえてきた方角を向いて、はっとした表情を浮かべる。
 何も見えていないその目は、明らかに何かを見ていた。
「どうしたの?お兄様」
「・・・・・うん、なんでもない」
 繁平は目を閉じてふっと微笑んだ。そして、静かに決断する。
「なぁ、あゆ。隆景殿のこと好きか?」
「隆景様?うん、好き」
 繁平の質問にあゆは、屈託無く答える。
「優しいし、お土産くれるし。あとね、ちゃんとお文もくれるの」
 あゆは、字や文の書き方の練習として隆景宛の文に書いたことがあった。それを
隆景宛の別の文を届ける使者に一緒に持って行ってもらった。使者は返事があるか
はわからないと言ったが、隆景はきちんと返事をくれたのだ。
 あゆにもわかる丁寧な文字で書かれたかな文字の文で、あゆの書いた文を褒めて
くれて、もう少しこう書いたら良いという指導までしてくれた。
「そうか、顔はどうだ?気に入っているか?」
「お顔?。うん。別に変じゃないよ。雑司女とか隆景様が来ると、かっこいーとか、
ステキーとかいっつも言ってるよ」
「隆景殿は、若い子に人気があるのよね」
「あたくしは、あまり・・・」
 東殿もホホと若そうな声をもらすが、乳母は気に入らないようだ。
 隆景は、御年18才。容姿端麗で性格も礼儀正しく紳士的であり、この辺りには
いないタイプなので、若い娘達には大変人気があった。しかし、それが逆に男達に
は警戒または嫉妬され、一部の者達を覗いて素っ気ない態度を取る者が多かった。
「そうか、僕は顔がわからないからね。嫌じゃないなら安心した」
 繁平は、再びあゆに尋ねた。
「あゆは、海が見たい?」
「見たい!!」
 あゆはきぱっと答える。
「隆景様が言ってたんだけど。川と全然違うんだって。すっごく大きくて、お船が
たくさん浮かんでて、お水がすっごくしょっぱいんだって」
「そうか」
「海、見てみたいの。そしたらお兄様とお母様に教えてあげるね」
 ニコニコして言うあゆに、繁平は「わかった」と答えた。
「そうか。じゃあ、お兄ちゃんが、あゆに海を見てあげるよ」


 その年の7月。
 毛利元就は、長年にわたり毛利家家中で、大きな存在感を見せていた井上一族を
誅伐した。
 この事件により殺された者は30名を超えるとされ、事件は、井上一族の者が
小早川隆景のいる竹原に呼び出されたことからはじまったという。
 さらに9月、毛利の監視下にあった、吉川家前当主・吉川興経が、元就の意を
汲んだ吉川元春の舅熊谷氏らに襲撃された、子の千法師や家臣達と共に殺害された。
 これにより、吉川の直系は途絶え、元春の当主の座を脅かす者はいなくなった。
 このことは、もちろん沼田小早川家の者達にも知らされた。
「そっか、容赦ないね」
 椋梨から報告を受けた繁平はそうつぶやいた。
「こっちは間に合ったかな?」
「隆景殿は、一度交わした約束を反故にするような方ではありません」
「うん。隆景殿を信じるよ」
 繁平は静かにそう言った。



***********


 その年の11月。
 空が赤く焼けて日も暮れ始める頃、竹原小早川家の居城木村城では、家老の南殿
が城門の傍で焚かれた篝火の明かりを頼りにそわそわしながら、城の外から来るも
のを待っていた。
 やがて遠くからぞろぞろと男達の行列が表れるとぱっと顔を晴らせ、城の中の者
達に号令をかけた。
「皆の者、花嫁御寮のご到着じゃ。出迎えの準備をせい!!」
 それと共に、木村城の男達はわらわらと屋敷から出てきて門の内側で待機する。
「南殿」
「これは、桂右衛門大夫殿。殿のご準備はよろしいですか?」
 桂右衛門もまた隆景の側近であるが、毛利氏からの被官であるため、毛利への
報告のためにも表に出てきていた。
「隆景様は、すでにお席にお着きであられる。あとは、花嫁をお導きするだけじゃ」
「おお、来た」
「では、私はその旨を隆景様にお伝えしてきます」
「承知した。皆の者、花嫁の持ち物を受けとれい」
 南殿に命じられ、城の男達は行列の男達から次々と運ばれてきたものを慣れぬ
手つきで行儀良く受け取っていく。
 夫婦和合を示す貝桶に、衣装や食器などを入れた長持ち、親戚毛利家からの贈答
品など数々。
 それらが運び入れられた後、花嫁を乗せた輿が到着する。
 その輿には、田坂全慶と椋梨弘平が付き添っていた。
「ううっ、ひめさまぁ~~~~」
 婚礼の夜だというのに田坂全慶はすでに泣いていた。
「田坂殿、婚礼の夜に失礼ですぞ」
 椋梨はあきれたような声をかける。
「そうはいうがなぁ。姫様はまだ7才だぞ。こんな幼くて愛らしい姫をよりにも
よって毛利なんぞに」
「竹原の家ですぞ。親戚同士ではないですか。遠国にやるよりは、はるかにまし
でしょう」
「そうはいうが・・・」
 田坂全慶は納得していない。
 その前触れは二ヶ月目、当然行われた。
  高山城に家臣達を集めた繁平は、

『今、尼子は大人しくしているが、またいつこちらに侵攻してくるかわからない。
僕たちは、尼子が攻めてくる度に、どちらに付くかで悩み、その度に当主が亡く
なったり、親兄弟で袂を分かつことを繰り返してきた。僕は、もうそれを終わりに
したい』

『そこで、まずは小早川家の結束を強めるため、我が妹あゆ姫を竹原小早川の当主
隆景殿に嫁がせることとする』

 家臣達はもちろん動揺した。
 婚姻は、家の力を強化および家を存続させる上で重要な戦略の一つだ。
 そのため姫は、重要かつ貴重な存在だ。
 もちろん家臣達もいずれとは思っていた。
 しかし、あゆ姫はまだ7才。
 姫の役割は、嫁ぎ先に気に入られ、後継ぎを生み、なおかつ嫁ぎ先と実家の縁を
取り結び、ときに嫁ぎ先で手に入れた情報を実家に教えることだ。
 竹原は、分家だが現当主が毛利との繋がりが深いため、戦略的に嫁ぎ先としては
ふさわしい。二人の間に子が生まれれば、その子は小早川を統合できる力を得る。
 しかしその肝心の姫が7才では、さすがにその役目をこなすには無理がある。
 それに、そもそもまだ幼い姫だけに、かわいそうだという大人の同情心も露わに
なった。
『おまちください。繁平様、聞いておりませんぞ、そんなこと』 
 田坂全慶は、真っ先に反対した。
 しかし、家中の者達はそれよりこの一件を田坂全慶が知らなかったことに驚いた。
 田坂全慶は繁平の側近中の側近であるというのに、相談せず、繁平が勝手に決め
たと言うことになる。
『爺、そうであったか?椋梨から話すと聞かされたんだけどね』
 繁平の言葉に、田坂はぎろりと無垢品を睨みつけるが、椋梨はしれっとした顔
で視線をそらし、そうでしたかな?とすっとぼける。
『でも、もうこれは決まっちゃったからね。爺、わびとして、僕の代わりにあゆの
婚儀に参加してきてよ』
『えっ!?わしがですが?』
 繁平の申し出に、田坂全慶は驚く。
『親族が誰も行かないのはかわいそうだし、僕は、このとおりあゆの花嫁姿を見れ
ないからね。爺は、僕らをずっと世話してきてくれた。だから、僕の代わりに見届
けてきて』

 田坂全慶としても、生まれたばかりの赤子の頃から世話し、可愛がってきたあゆ
姫の花嫁姿を生きている内に是非とも目にしておきたいとずっと思っていたので、
異論は無かったが、まさか、こんなに早くとは思わなかった。
「ううっ、やっぱり嫁になどやりとうない」
「なにをいまさら。ほれ、さっさと涙を拭きなされ。いよいよ花嫁のお出ましです
ぞ」
 椋梨はさっさと花嫁の輿の前に進みでて、それを見て田坂もあわてて涙を手ぬぐ
いで拭い、椋梨と反対側の位置に待機する。

「花嫁様、おでましーーーーー!!」
 その言葉と共に、椋梨と田坂は同時に輿に下げられた御簾を手に取りするすると
上に上げた。
 

 
 同じ頃、隆景は、婚儀のためにしつらえられた金屏風の前で花嫁が現れるのを
待っていた。
「・・・・・」
 しかし、花嫁はなかなかやってこなかった。
「少々遅うございますな」
 桂右衛門が、少々せわしなくする。
 彼は、毛利元就からこの婚礼を首尾良く終えるよう厳命されていたため、事の
成り行きが滞るのを気にしていた。
 そこで、誰かに見入って参れと使いの者を送ると、使いの者はやや困惑した顔を
して戻ってきた。
「大変です。花嫁様が・・・」


 その頃、花嫁の輿では、
「姫様、姫様。起きてくださいまし」
「う~ん、実に可愛らしい寝顔じゃ、よく寝ておる」
「見惚れている場合ではありませんぞ、田坂殿。花嫁が起きねば婚儀が進まないで
しょうが」
 あゆの乳母と田坂と椋梨が輿を取り囲んで、中で寝ているあゆを起こそう必死に
なっていた。
 輿に乗るまでは確かに起きていたのだが、まだ幼いあゆには、沼田から山を越え
て木村城まで来るまでが遠く、さらに婚儀が当時の慣習により日が暮れてから行わ
れるのもあいまって、輿の中で眠ってしまったのである。
「いかしたがない、私があゆ姫様を抱っこしてお席へお連れしましょう」
 椋梨が失礼とあゆ姫に触れようとするのを田坂が静止した。
「やめぬか。花嫁には花婿以外が触るなどとんでもない」
「そうは言っても、田坂殿。花婿殿はここには来れぬのだし、しょうがないではな
いですか」
 花婿が、花嫁を婚礼の席で待たず表に出て待つことは、はしたない行為であり、
嫁ぎ先と花嫁の実家の格差の話までに発展することもあって、ならないこととされ
た。
「起きるまで待てば良いだけの話じゃ。なんなら日を改めて婚儀を行えば良い」
「田坂殿、あなたはここまで来てまだ」
 椋梨と田坂の間に険悪な雰囲気が流れ、他の者達はどうするべきかと困り果てる。

「やれやれ、こんなことになると思っていましたよ」

 突如表れた隆景に、この場にいる者達はみな動揺する。
「た、隆景様、どうしてここに」
「なりませんぞ、席にお戻りください」
 竹原の者達は、隆景は意に介さない。
「このままだと、婚儀が終わらないまま夜が明けてしまいますよ。それに竹原の
当主が、宗家の姫を出迎えてもなんら失礼に当たりません。むしろ本来はそうすべ
きなんです」
 隆景は、さっさと輿に向かうと田坂達を押しのけて、腰の中で眠るあゆの姿を
確認する。
「外でこんな騒ぎになっているのに、なんてのんき、いえ、肝が据わっている
お姫様だ」
 隆景は、さっとあゆ姫を抱き上げて輿から降ろす。
「・・・・・ふにゃ」
 その時ちょうど良く、あゆ姫が目を覚ます。
「・・・・?おしろついた?」
「良い時にお目覚めですね。そうです、ようこそ木村城へ」
「たかかげしゃまのこえがする」
「席に着くまでに目を覚ましてくださいね」
「あい」
 隆景はしっかりとあゆを抱き上げて、婚礼の席へと連れて行く。
 寝ぼけた様子の花嫁姿のあゆはあまりに愛らしく、先ほどの喧噪が嘘のようにし
ずまり、家臣達はいっきにほんわりした。
「やれやれ、なんとかなった」
「うおぉぉ、姫様ぁ。三国一の花嫁ですぞおぉぉぉ!!」
 婚儀が進んだことにほっとする椋梨の横で、田坂は滝のような感動の涙を流した
のであった。



 婚礼の席に無事花婿と花嫁が着席し、ここに竹原と沼田の婚儀が成立した。
「両家同士の婚儀が行われたことは何代ぶりかのぅ」
「もしかしたら初めてかもしれんぞ。小早川は姫がほとんどいないからな」
「まぁ、とにかくめでたい」
「花婿は凜々しいし、花嫁はひな人形のようじゃ」
「しかし、ちと年が離れすぎやしないか」
「それはそれ。いずれはその方が良いと思える時が来るのよ」
「その間のことも椋梨と乃美が手を回すじゃろ」
(やれやれ、みな好き勝手に言ってくれるな)
 隆景はそれを顔におくびには出さず、ちらりと横に座るあゆ姫を見る。
 一応目は覚ましたが、覚醒半分と見えて、まぶたが重そうだ。
(まっ、このほうが会話が聞こえなくて良いか)
 あゆの限界が近そうだったので、隆景は次ぎの儀式に移る。
「では、お二方、おやすみなさいませ」
 侍女達は一礼して、寝所の戸を閉める。
 婚礼は、夫婦が一夜を共にすることで完遂となる。
 とはいえ、それは時と場合にもよるのだ。
 あゆはまだ7才だし、隆景もそんな子供に手を出すつもりもないし、興味も無い。
 いざ本人を前にすると若紫なんてとても思えない。光源氏はとんでもないことをしたものだ。
(この婚儀は、皆の前で祝言を挙げるだけで完了と沼田とは話がついているしな)
 しかし、一応の儀礼として布団を並べて寝ることはすることにはなった。
 すでに寝間着に着替えたあゆは先に布団に入り、とっくに夢の中だ。
「よく寝ている」
 寝相は悪くないと聞いているが、もう冬だ。風邪を引かないよう布団からはみ出
していないか注意しなくてはいけない。
「・・・・・ごめん」
 隆景は、急に申し訳なさそうな顔で今宵妻となった姫の寝顔を見つめる。
 おそらくこの姫は、事情も知らず、婚儀のこともよくわからずに、婚儀に望んだ
のだろう。
「でもこれが小早川の、ひいては毛利のためなんだ」
 大内と尼子という巨大な勢力に挟まれながらも力をつけ、双方に翻弄されない
存在となるためには、小早川の力はどうしても必要だ。
「あと一つ、君に海を見せるという繁平殿との約束がある。それを果たせば、
こちらはすべてが手に入る。あとは君が妻の役目を果たせば、君の自由だ」
 あゆの最大の役目は、跡継ぎを生むこと。
 隆景は、それさえ果たしてもらえば、あとはあゆの好きなようにさせるつもり
だった。育ててくれる者は、他にいくらでもいるのだ。
「兄に言われるがままであっても、その歳で婚儀を果たしてくれた君に敬意を示し、
子ができるまで家には誰も入れないことを約束しよう」
 そのとき、あゆがコロンと寝返りを打ってむにゅむにゅと寝言をつぶやく。
「おまんじゅ・・・おいし・・・ね」
 おいしそうな夢を見ているらしいあゆに、やっぱりまだ子供だなと隆景は苦笑し
て、自分も布団に入る。
 この時の隆景は、自分が子供を持てず、側室の一人も持つことなく、やがてこの
姫を深く愛し、生涯ただ一人の妻として、生涯添い遂げることになるとは、夢にも
思わなかった。


 ***********


 年中を通して温暖な気候の続く瀬戸内だが、やはり冬は寒い。
 海岸などは人ひとりおらず、どことなく哀愁を漂わせる。
 それでもずっと思い描いてきた海なのだ。
 あゆは臆せず、白波に立ち向かっていった。
「はい、そこまで」
 隆景にがしっと身体を掴まれ、あゆはそれ以上進めなくなる。
「離して隆景様。海が待ってるの」
「冬の海なんて入ったらあまりの冷たさに、風邪どころですまなくなりますよ。
もう見たから良いでしょう」
「だめっ。触らないとお兄様に伝えられないの」
(あっ・・・!)
 隆景はその言葉で気づく。繁平は目が見えないため、色や人の顔、風景などの様
子がわからない。それを伝えるためには、言葉がいるが、具体的に伝えるには話す
人の体験や言語の豊富さが必要だ。思い返せばあゆは、自分がもらった人形のこと
を伝えるために、人形をさらわせたり、表情を具体的に伝えようとしていた
「・・・気持ちはわかりますが、冬の海は危険なんです。波も荒いし。夏になれば
海水に浸ることも出来ますからその時まで待ちましょうね」
「隆景様、海って泳げるの?」
「もちろん泳げますよ。夏のみですが」
「そっか、川も夏しか泳がないものね。わかった。夏に泳ぐ」
 あゆの発言に、隆景は怪訝な顔になる。
「・・・あゆ姫は泳げるんですか?ちなみに何を着てるんです?」
「できるよ。寝間着の裾をすっごく短くしたのを着て泳ぐの。暑いときとかすごく
気持ちいいの。海もそれでいいよね」
「ちょっと、あとで話し合いをしましょうか」
 なぜかこの姫があられもない姿で泳いでいるのを想像して、隆景は複雑な気分に
なった。
「お二人とも、風邪引くんでこっちに来なせー」
 砂浜を上がったところで火を焚いている男が、隆景とあゆに手を振る。
「ちょうど良い具合に焼けましたぜ」
「わかった、宗勝。今行く」
 隆景はあゆをおろし、その手を引いて、宗勝の所へ向かった。
「さぁ、どうぞ。お姫様」
 宗勝は、たき火の周りに差してある木の棒に貫かれた焼き魚を1匹、棒ごとあゆ
に差し出す。
「食べられるかい?」
 隆景は少し心配そうにするが、
「平気、爺がよくこうしイワナを焼いてくれたから」
 あゆは、棒を受け取ると勢いよく魚にかぶりつく。
「おっ、いい食べっぷりで。どうです、味は?」 
「・・・なんか、イワナよりしょっぱいわ」
「ははは。海の魚ですからね。川魚よりうまみが強いでしょ」
「うん。大きいし、色も赤い魚なんて初めてだわ」
「カサゴは今の時期うまいですよ。隆景様もどうぞ」
 宗勝は隆景にも一本差し出す。
「ありがとう、宗勝」
「そうそう、今朝方いいたこが揚がったんで茹でたらお館に持って行きますよ」
「うっ、タコか」
 隆景はタコと聞いて少し表情を暗くする。毛利の居城吉田は山奥にあり、山育ち
の隆景は竹原に来るまで海産物を見たことはほとんど無かった。
 とくに、タコやイカなど軟体生物は縁が無く、初めて生きているタコを見たとき
はあまりの奇妙な身体と動きに震え上がってしまった。
 以来、苦手としている。
「わぁ、タコ。干物しか見たことないけど、おいしいよね」
「おっ、姫様はいける口ですか、茹でタコは酢に漬けて食べるとうまいですよ」
「うん。楽しみ」
 一方のあゆは、水軍に縁のある小早川の姫として海産物にも親しく、この当時の
郵送手段のため新鮮なものは難しいが、干物類で大体慣れていた。
「いやぁ、しかし、沼田の姫様がこんなに可愛らしい方とはね。しかも、隆景様の
奥方様とは、これで沿岸部は安泰。俺達も落ち着いて商売が出来ますよ。三原の
連中も大喜びでさ。近頃、村上の連中が鼻についてきましたからね」
「宗勝、あゆの前だぞ」
「ととっ、いけねぇや。姫様、もう一本行きますか?」
「うん、おかわり」
 いつの間にか魚を綺麗に平らげたあゆは、もう一本所望した。


「じゃあ、俺はこれで。舟に乗りたいときはいつでも言って下させぇ、絶景の場所
とか案内しますぜ」
 そう言い残して、宗勝は舟に乗り大海原へと去って行った。
「隆景様、えっと・・・乃美宗勝だっけ、あの人も隆景様の家臣なの?」
「家臣というか、寄騎ですね。宗勝は、ここと三原の間にある串海を本拠にする
海賊です。乃美は、沼田小早川家の庶家のはずですが」
「知らないわ。乃美の人は見たことない」
 あゆが嘘を言っているようには見えない。
 乃美家は、竹原小早川を仕切り、隆景を竹原へ呼んだ一族でもある。さらに
父毛利元就の側室に一族の女を差し出しもしている。
 決して、油断ならぬ一族だ。
「そうですか。でも、宗勝は、いつでも駆けつけてくれる頼りになる人ですよ。
あゆ姫も仲良くしてくださいね」
「うん」
 隆景とあゆは連れだって、今夜の宿所に向かう。
 この竹原の港から木村城までは遠いので、今夜はこの辺りを任せている被官の
屋敷で泊まることにしていた。
「隆景様、海を見せてくれてありがとう」
 布団に入ったあゆは、寝かしつけをしてくれている隆景にお礼を言う。
「触れなかったからまだよくわからないけれど、海は広くて大きいね。海の向こう
にもたくさん島があって、お船がたくさん通っていて、お兄様に教えてあげたいこ
とがたくさん出来たの」
「なら、教えに行きますか?」
 隆景は、あゆの横に寝そべり、ぽんぽんと布団の上からあゆの胸元を軽くたたき
ながら訪ねる。
「姫も、こんなに長く高山城を離れて寂しいでしょう。一度、兄上や母上の顔を
見せに行きませんか?」 
 木村城に来てからしばらくは、あゆは高山城との違いやそれまで過ごした家族や
家臣がいないことに戸惑い、恋しさで泣くことがしばしあった。
 それでも沼田からあゆ付きとしてやってきた金山や竹原においてあゆ付となった
日名内、竹原小早川庶家であゆに好意的な南家の支えもあり、しだいに竹原になれ
ていった。
「うん。でもいいの?」
 あゆは少し不安げな目をして尋ねる。
「なぜです?」
「乳母やがね、一度竹原に来たら、もう沼田には帰れないって言ってた」
 たしかに乳母の言うことは正しい。本来ならそのとおりだ。
「夫である私が連れて行くなら大丈夫ですよ。今度一緒に行きましょうか。繁平殿
には私から伝えておきます」
「ほんと。約束だよ」
「はい、さぁ、もうおやすみなさい」
「うん。今日のお魚おいしかったの。お兄様にもお土産に持っていきたい・・・」
 寝付きが良いのか、あゆはうとうとしてすぐ眠ってしまった。
「干物でも用意しましょうか。沼田の者達全員分をね」
 隆景は起き上がると、あゆを起こさないように寝所を出て、部屋で一人、机に
向かう。
「これで約束は果たした」
 そして、夜の闇に浮かぶ行灯の火の元で、沼田への手紙をしたためた。
「次は、そちらの番ですよ、繁平殿」



 数日後、沼田高山城で、繁平の元を椋梨が訪れた。
「繁平様、私宛に隆景殿から文が届きました。お読み申し上げます」
 繁平には、椋梨の読み上げた文に、あゆに海を見せたという一文が含まれている
ことを耳にする。
「確かなの?」
「はっ、間違いございません。あゆ姫様はそれはそれは喜んでおられたそうです」
「そうか。わかった。じゃ、僕も約束を果たすよ」
 繁平の言葉に椋梨は平伏する。
「あとのことは、すべてこの椋梨にお任せください。万事滞りなく整えいたします」
「ありがとう。当日は、できうる限りの人を集めてくれる?僕の言葉で直接伝えた
いから」
「はっ、承知いたしました」
 椋梨が下がった後、しばらくして田坂全慶がやってきた。
「繁平様、あゆ姫様の乳母から文が届きました。姫様が海をご覧になられたそうで、
その報告のために隆景殿と一緒に高山城に参られるそうです」
「そう、なら間違いないね」
「は?」
「椋梨からも報告があったよ。あゆの里帰りだ。爺やも今度は泣かずに出迎えてね」
 田坂全慶があゆの婚儀の席で大泣きしたことは、繁平の耳にも入っており、田坂
は、恥じ入るしかなかった。


**********

 12月が終わりに近づいてきた頃、あゆは隆景と共に沼田へ帰った。
 しかし、高山城にすぐに入らずに、椋梨の屋敷に入った。
「なんですぐにお城に入らないの?」
「疲れた姿で城に入っては兄上や母上を心配させますよ。ここで一度休息を取って
から訪ねましょうね」
 椋梨の屋敷に来た覚えはほとんど無く戸惑いを見せるあゆに、隆景は優しく諭す。
「隆景様、あゆ姫様。よくぞ我が屋敷へおいでくださった。自分の屋敷と思って
どうぞおくつろぎください」
 椋梨は、二人を歓迎し、あれこれ世話を焼いた。
 あゆはいつも田坂の爺やが傍にいたため、椋梨とはそれほど交流がなかったが、
婚儀のため木村城へ行く旅で、椋梨がいつも自分のことを気にしてくれていたので、
それほど悪い印象を抱かなかった。
 明日、高山城に上がるというその日の夜、椋梨の屋敷にお忍びで尋ねてきた人物
がいた。
「お兄様!!」
「やぁ、あゆ。元気だったかい?」
 あゆは、部屋に案内されてきた繁平の姿を見るなり抱きつき、繁平はよろけなが
らも妹を受け止める。
「どうしたの?明日、お城で会うんでしょ?」
「あゆに早く会いたくて、城を抜けてきたんだ。皆には内緒だよ」
 繁平は、ぺたぺたとあゆの頬を触ったり、むにむにと揉んだりする。
「うん。ちょっとムチムチしてるかな」
「あのね、海のお魚ってとってもおいしいの。隆景様の配下の宗勝って言う海賊さ
んが、いつもたくさん釣って持ってきてくれるの」
「そうか隆景殿が海賊を。なら小早川水軍の復活は間違いないな」
「どういうこと?」
「表の話さ。それよりあゆ、竹原ではすごく大事にされてるんだね。声が元気で
張りがあって大きいな」
「うん。みんなとってもやさしいよ。あのね、それでね・・・」
 あゆは一生懸命に繁平へ竹原のことを伝える。
 気がつけば、部屋には兄妹2人だけになっていた。
「よろしいのですか、お二人だけになさって」
「今夜が最後だからな。水入らずを邪魔するのも野暮だろう」
 弘平の部屋で、そんなことをしゃべりながら弘平と隆景は明日の打ち合わせを
行う。
「繁平様のご希望で、登城できる者はすべて登城します。ですが、御前近くはすべ
て梨子羽殿をはじめこちらの意に通じている者で固めておりますので、ご安心ください」
「そうか。東殿の方はどうだ?」
「すでに繁平様が話をしております。母君様は繁平様のご意向に従うそうです」
「わかった。東殿はあゆ姫の母君だからな。身の安全はこちらと毛利で保証する」
「母君様もさぞやお喜びになられましょう」
 弘平は、酒器を手に取ると、杯を隆景に渡してその杯に酒を注ぎ、自身の杯にも
注ぐ。
「明日の成功を願って」
 弘平は杯を仰ぎ、隆景も杯の中の酒を口にする。
「・・・・なぁ、椋梨。今更なんだが、おまえは繁平殿が気に入らないのか?」
「本当に今更ですな」
 隆景の質問に、酒も入っているせいか弘平は素直に答える。
「いいえ、繁平様は長い沼田小早川家の中でも聡明な御方と存じます。ただ、盲目
なのが残念なだけで」
「では、お前はなぜ此度のことを画策したのだ?」
「今のままでは沼田どこか、小早川全体が立ちゆかなくなると思ったからですよ。
一度、繁平様に言われたことがあります。お前は当主になる気はないのか、と」
「繁平殿に?それでお前はなんと答えたんだ」
「庶家に本家は越えられないと申しました。我々は本家あってこそ活躍できますか
らね。それぐらいのわきまえはありますよ」
 そう言いながら弘平は、杯に酒を注いでグビグビ呑んでいく。そのうち酔いが
回ったのか、田坂全慶への愚痴に移っていった。
「あの男も、沼田への忠誠心が高く帰城運動を成功させたのは、評価してるんです
けどね、なにぶんお二人にべったりで」
「なるほど。確かにそのようだな」
「お二人が可愛いのはわかるんですが、可愛く思っているのは、田坂だけじゃない
んですよ。なのにあいつめ、爺やだから抱っこを独り占めして」
「ん?抱っこ?」
 どういうことだ?と思う隆景に、弘平はしゃべりすぎたと思ったのか、酒を飲む
のをやめる。
「これ以上はやめましょう。二日酔いは明日に支障が出ます。ちょっと繁平様と
あゆ姫様の様子を見てきますね。隆景様も用意した部屋にお移りください」
 弘平は隆景を部屋から追い出す。

 その頃、繁平はしゃべり疲れて眠ってしまった妹の頭を膝に乗せて、頭を撫でて
いた。
「これからいろいろ変わってしまうけど、あゆなら大丈夫だからね」
 あゆの声は、沼田にいたときより良くなっていた。この声が枯れない限り妹は
大丈夫だ。 
「繁平様、そろそろ・・・」
 椋梨と繁平をここまでお忍びで連れてきた梨子羽が静かにやってくる。
 繁平は、しぃーと唇の前で人差し指を立てる。
「静かに、あゆが起きる」
 椋梨に呼ばれてそっと入ってきたこの家の侍女にあゆを託し、繁平はあゆから
離れる。
「ありがとう、椋梨。じゃあ、明日」
 あとを託し、繁平は梨子羽に供されながら高山城に帰って行った。


 翌日、高山城の広間には、沼田家中の者達がほぼ全員集められた。
 高間には、当主の座に座る繁平。
 その脇に、嫁入りしたはずのあゆとその夫の隆景がおり、早すぎる里帰りに動揺
の声が漏れ聞こえた。
 高間に滅多に座らないあゆは、慣れぬ状況にそわそわしていたが、兄と夫がじっ
としているのを見て、大人しくなる。
「本日、お前達に集まってもらったのは他でもない。小早川家の今後についてで
ある」
 繁平の発言により、場がシーンと静まりかえる。

「小早川家のさらなる発展のため、今を持って私、繁平は、我が義弟隆景を養嗣子
とし、さらに当主の座を譲ることにする」

 場の後ろの方でざわめく者がいたが、大半は椋梨が根回し済みで、大人しくして
いた。
 田坂全慶もだ。
 震えてはいたが、異を唱えなかった。
 すでに、繁平からこのことを聞いていたからだ。

「そして私は、本日をもって隠居し、小早川代々の菩提寺米山寺にて得度出家のう
え、この高山城を隆景に譲り渡す。私に追従し、出家したい者はそれを許す」
 この繁平の言葉は、前の方にいた者達をも動揺させた。
 繁平が出家し、城を出ると、沼田の被官達は一度解雇され、新しい城主に再び
仕官できるかは、新城主の意向次第だからだ。
 隆景は竹原に養子に入った上に、沼田の姫を嫁にもらった身だ。当然竹原のみな
らず、実家の毛利からも大勢の人を連れてくるだろう。沼田の席次は少なくなるの
は必定だ。
「突然の決定に驚く者も多いだろうが、これは前々から思っていたことだ。皆も
知っているように、僕は目が見えない」
 続けられた繁平の言葉に、場が今一度しんと静まりかえる。
「火急の文が届けられても、それを誰かに読んでもらわなければ、内容がわからな
いし、それが内容正しく読み上げられているのかもわからない。なにより、この目
では、この戦乱の世における民の苦悩も、戦場におけるお前達の苦境や死を刻むこ
とは叶わない」
 繁平は、隆景が座る辺りと事前に教えられた方角を向いて、
「隆景殿、そこにおられるか?」
 と尋ねた。
「はっ、ここに」
 隆景が返事をすると、繁平は
「このように返事をしてもらわなければ、そこに誰がいることもわからない。
僕では、おまえたちを導くどころか寄り添うことさえ困難なんだ」
 と隆景がいる方向を見たまま、さらに語る。
「ここにいる隆景殿は、請われて竹原に入られたほど、優秀な方だ。ご実家の毛利
家も力が強くしっかりしている。隆景殿と毛利家の力添えがあれば小早川家は、
どのような中でも生き抜いていける」
 繁平は再び前を向いて、皆に向かって頭を下げた。
「みな、許せ。これが僕がお前達に出来る精一杯のことだ」
 誰も何も言わなかった。
 皮肉なことに、沼田家中の者達はこの時初めて、繁平が盲目ではあるが、決して
当主として劣った器量の持ち主ではなかったのだと、気づいたのである。
 繁平は頭を上げ、最後の言葉を述べる。
「今後は、隆景殿とその妻となった僕の妹あゆを支えて欲しい。隆景殿はこの地に
はまだ慣れていないし、あゆはまだ幼い。お前達の支えがあれば、一日でも早く
安定が訪れ、民も安心するだろう。本支が合流し、一つとなった小早川をこれから
も頼む。以上だ」
 広間のあちこちからすすり泣く声が聞こえる。
 それは、沼田小早川家宗家最後の当主の終わりの日を締めくくるにふさわしい
言葉であった。




「なるほど、とりあえず小早川の統一は相成ったわけだ」
 沼田から遠く離れた山の中、吉田郡山城では毛利元就が、事の成り行きの報告を
受けていた。
「はっ、突然の発表に戸惑った者達も繁平殿の言葉に感銘を受け、隆景様に協力す
る者が出てきております」
「しかし、逆に繁平の資質に気づき、繁平を還俗させてでも沼田を存続させたい輩
が出てきたわけか。しばらくもめるなこれは」
「はい。繁平殿自身はすでに城を明け渡しておりますが、繁平殿擁立派が高山城を
占拠しております。中心は、田坂全慶です」
「ふむ、田坂全慶は繁平の隠居に異を唱えなかったと聞くが、結局は・・・・・
いや」
 元就はふむと考え込む。
「元就様?」
「まさか、あえて?遺恨を残さぬため・・・・いや、まさかな、さすがに考えすぎ
だな。さすがに子供がそこまでできない」
 元就は、自分の考えを振り払う。
「それで、田坂全慶らの誅伐に毛利の助力が必要と?」
「はい」
「無論だ。乃美隆興・興景親子にやらせろ。椋梨達が手を下せば後々の運営に支障
を来すだろう。夫婦仲が悪くなっても良くないしな」
 乃美隆興は、元就の側室・乃美の大方の兄妹で、隆景の竹原小早川入りを後押し
した人物である。喰えないところもあるが使える男だ。
「ところで、繁平の母君はどうした?」
「状況が落ち着くまで、梨子羽殿の屋敷に避難されました」
「ふむ。で、小早川の嫁御はどうされているかな?」
「あのあとすぐ、竹原に帰られましたので、ご事情はよくご存じではないかと。
竹原では一応元気に暮らしているようです」
「ふむ、嫁御の顔は一度は見たいし、局様の慰めになるかもしれん。折を見て、
吉田に呼ぶか」
「はっ、隆景様にお伝えします」
  使いの者は、元就の前を下がった。
「これで水軍は手に入れた。当分は安泰・・・だが」
 いま、大内の内部で不穏な空気が流れていることを元就は知っていた。
 尼子が虎視眈々と侵攻の機会を狙っている今、これからどうするべきか。
 元就はまだ道筋が見えていなかった。
 




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