天文17年。
後に戦国時代と呼ばれる日本中が戦乱に明け暮れていた頃、中国地方は周防の
大内氏と出雲の尼子氏の二大勢力が覇権をかけて争っていた。
中国地方の国人衆はこの争いに巻き込まれ、特に国境に住む人々は、今日は大内、
明日は尼子とその時その時で立場を変えながらなんとか生き延びていた。
安芸国沼田を本荘とする小早川一族もその一人であった。
「やはり領内に川があると小早川らしいな」
渡し船から下りた青年は、背後を振り返りとうとうと流れる川を見つめる。
「自領にも川はありましょう」
従者の言葉に青年はそうだなと頷くが、
「だが、向こう岸で渡るのに舟に乗らなければならないほど太くはない。まぁ、
海はすぐそこだけどな」
「それが良いのではないですか。我らの軍勢を鑑みれば川より海が近い方が良い」
「たしかにそうだが・・・」
「若、失礼しました殿。馬の準備が整いました」
もう一人の従者が、馬の綱を引いて堤に上がっていた。
「参りましょう。目的の場所まではもう一息です」
「ああ・・・」
「あの山の上にあります。道が険しいので、館には歩いて」
「少し待て」
「・・・殿!?」
従者に一言告げて、青年は渡し場から下流に向かって川原を走って行った。
渡し場から少しだけ下流に行ったところの川縁で、こぎれいな小袖を着た少女は
しょんぼりした顔でしゃがみ込んでいた。
「お嬢ちゃん」
「・・・・・・」
「姫様」
少女は姫と呼ばれて振り向いた。そこには見知らぬ青年がいた。
「誰? じいやのお使い?」
「・・・・そうですよ。どうなさいました」
「つかれちゃったから休んでたの」
姫は、力の無い声で言った。
「海に行こうの。でも、全然見えないの」
「海ですか?ここからなら、ずっーーーーーと先に行ったところですよ」
青年は川の下流を指さす。
「姫様はなぜ、海に行こうとしたのです?」
「お兄様に教えてあげたかったの」
姫はしょぼんと答える。
「川をずーーーっと行くと海があるんですって。でも、私もお兄様も、海がどんな
ところかわかんないの。だから海を見てみたかったの」
わからないから教えられない。だからまず見に行く。
(その理屈はわかるけどね)
でも、無謀だ。ここから海までどれだけの距離があると思っているのか。子供の
足では到底たどり着けない。
「姫様の足では海にたどり着く前に日が暮れてしまいますよ。また今度になさい」
「いやっ」
姫はぷいっとそっぽを向く。
「ぜったいに見に行くもん」
「でも、もう歩けないでしょう」
「もうちょっと休んだら大丈夫だもん」
と言って姫は、ぽすっと自分の膝に顔を埋めて石のように固くなってしまう。
青年は参ったなという顔をする。
ほうっておいていいが、この姫の城が、この先にある山の上の城というならそう
はいかない。
青年は、周囲を見渡して、川の堤の傍に竹藪が生えているのを見つけるとそこに
急いで向かい、竹の葉をいくつか取って再び姫の元へ戻ってくる。
「姫様、海へ向かう舟を作って差し上げましょう」
青年の言葉に姫は顔を上げると、青年は竹の葉を器用に編み、舟を作る。
その舟は、青年の手のひらに載るほど小さい。
「そんなちっちゃいの、私、乗れないわ」
「おや、姫様は知らないのですね。これは流すとどんどん大きくなるのですよ」
「そうなの?」
「そうです。願いを込めて、この舟を川に流してみなさい。そうすれば、ふと気づ
くと大きくなった笹舟に乗っていて、姫の好きな場所へ連れて行ってくれますよ」
「お兄様も?」
姫は青年に尋ねる。
「お兄様もいっしょに乗せてくれる?」
「姫様がそう願えば」
「わかった」
姫は青年から笹舟を受け取ると立ち上がり、両手で高く空に掲げて、大きな声で
願う。
「私と、お兄様・・・」
姫はちらっと青年を見ると
「この大きなお兄様と一緒に海に行けますように」
そう行って、笹舟を川の水面に浮かべる。
笹舟は、川の流れに乗ってどんどん下流へと流れていった。
「いっちゃった」
「上手く流れましたね」
「全然大きくならないわ」
「姫を迎えに行くときにはなってますよ」
「そっか」
姫は満足そうな顔をして、青年を見上げた。
「ありがとう、大きなお兄様」
ニコッと笑う姫に、青年に口元に笑みを浮かべる。
「ところで、どうしてさっき笹舟に私も一緒に乗ると言ったのですか?」
「え~~~~~っとね。お礼」
えへへと姫が恥ずかしそうにしたとき、
「あゆ姫様!!」
馬に乗った老人が姫を見つけると馬から下りて駆け寄ってくる。
「じいや」
「こんな遠くまでお一人で来られて、爺は心配しましたぞ。一人で城の外にでは
ならぬとあれほど言ったではありませんか」
「ごめんなさい」
姫は謝るが、青年は姫の表情からこの姫はまた脱走するなと予想する。
「あのね、海に行こうとしたの」
「海ですと!?なんと無茶な」
「それでね、この大きなお兄様が海に連れて行ってくれるお船を作ってくれたの
よ」
「この青年が」
これでお兄様にも海を教えてあげられると喜ぶ姫の傍で、爺やは青年に怪しげな
者を見る目を向ける。
「姫様が、お世話になったようですが、どちらが来られましたかな?」
「竹原からです。今日、高山城を尋ねると先触れを出していたのですが」
「竹原っ。では、そなたが・・・・」
爺は、驚くと同時に複雑そうな表情を浮かべて、青年に向かってお辞儀をする。
「ご無礼を、竹原のご当主殿。私は田坂全慶。沼田の当主様に仕えております」
「あなたが、田坂殿ですか。話はいろいろ聞いています」
「話は後で。どうぞ城へおいでください」
「わかりました。姫様もご一緒にお送りしましょうか」
青年はあゆ姫をチラリ見る。
「いえ、結構。私が城へお送りします。さぁ、姫様、こちらへ」
「大きなお兄様。お城へ来られるの?」
姫の質問に青年はそうですよと答える。
「じゃあ、お兄様にもご紹介するわね。お兄様はね、」
「姫様、話は後でなされませ」
姫は爺に抱き上げられ、連れて行かれる。
「後でね、大きいお兄様」
「ええ。城で会いましょう」
「わたしね、あゆって言うの」
「隆景ですよ、あゆ姫様」
あゆ姫は連れて行かれながら、田坂の爺に、姫が自分から名乗り上げるなどはし
たないと叱られていた。
「若紫・・・・と言ったところか」
そうつぶやいて隆景は従者達の元へ戻った。
「またせたな」
「さすがは、隆景様。沼田の姫をお助けするとは」
「当然だ」
(こんな川辺にこぎれいな子供が一人でいれば、嫌でも目立つさ)
まさか本物とは思わなかったが、とにかく良い印象は与えられたと思う。
(今後のためにも、印象は良ければ良いほどいい)
「ただ、田坂全慶にもこんなところで顔を合わせになるとは思わなかった」
「沼田小早川家一番の忠臣ですからね。今までずっと自分の屋敷に当主一家を住まわせ、今も昼夜と問わず仕えているとか」
「障壁となるに不足なしだな。面白くなりそうだ」
隆景は馬にまたがるとはぁっと駆け出し、一路目的地の高山城を目指した。
********
「このたび、竹原小早川家の養嗣子となり、当主となりました隆景にございます。
ご挨拶が遅れましたこと、お詫び申し上げます」
「沼田小早川家当主繁平です。ようこそ参られた、隆景殿」
広間にて高間の当主の座に座っているのは幼い少年だった。事前に得た情報だと、
今年7つになるという。しかし、なかなかしっかりしていそうな少年だ。
その脇に控えるのが先ほど会った田坂全慶だ。
「また、宗家様のこのたびの帰城が叶いましたこと、お喜び申し上げます」
隆景は、幼い当主の前に頭を下げた。
事の発端は、今から5年前に遡る。
天文12年、当時の沼田小早川家当主正平が、大内義隆の出雲遠征に伴い出陣し
た。
この出雲遠征で大内勢は惨敗を期し、撤退の最中、正平は追撃してきた尼子勢に
より討ち死にしたのである。まだ21際の若さであった。
当然その嫡子も幼く、当時2才であった繁平の家督相続は認められたものの
幼い当主に国境の城を任せるのは無理があるとの理由に、大内勢により城を追い
出されたのである。その城から出された繁平とその母を引き取り、面倒を見て、
帰城運動の中心を担っていたのが、脇に控える田坂全慶であった。
「我が父、毛利元就も此度のことを大変喜んでおられました」
隆景は、元々は安芸国国人衆の頭目的存在である毛利元就の三男である。
竹原小早川の前当主興景が子のいないまま亡くなり、その妻が毛利家出身という
縁から4年前、養子に選ばれたのであった。
「毛利殿の尽力には感謝いたす」
「それにしては、ちと実現が遅うございましたな」
素直に感謝を述べる繁平に対し、田坂は嫌みな言葉を述べる。隆景は内心むっと
した。
(確かに父は乗り気ではなかったが、だからと言って全く何もしないわけではない
ぞ)
元就は、大内義隆に意見できる人間として地元の国人衆には認知されおり、小早
川も帰城の件で、元就を頼った。沼田小早川家にはいろいろあったので、元就は
肩入れする気は薄かったが、最終的には大内義隆に進言して、繁平の帰城に一役
買ったのである。もちろんそのことは、田坂全慶も知っているはずであるが・・。
「よせ、爺。我らの城へ帰るのを決めたのは大内義隆様なのだろう。なら、毛利殿
のせいではないではないか」
(ふぅん。当主は幼いなりに分別が付いているとみた)
それに対する田坂は、現実が見えていない。忠誠心は篤いが、それゆえに目が
曇っている。
(それにしても・・・)
隆景は少しだけ顔を上げ、当主の席の後ろにある武者隠しを見る。
(なんとわかりやすい視線だ)
そこから向けられる強く幼い視線に、隆景は苦笑する。
その武者隠しからは、隙間からじーっとあゆが隆景のことを見ていた。
(姫様、もうそろそろ・・・)
(お部屋にお戻りください)
元々、武者隠しに控えている警護の者達が。突然現れたこの小さな乱入者に戸惑
いの表情を見せる。
「やだっ、まだ・・・・」
声を上げた瞬間、警護の者達にしぃーっと注意されてあゆは慌てて自分の手で
自分の口を塞ぐ。
(見るの。じいやが来ちゃダメって言うんだもの。しょうがないの)
田坂に城に連れ帰らされたあゆは、兄繁平から今から隆景に会うと聞かされ、
「私も大きいお兄様に会いたい」と兄と一緒に広間に行こうとしたが、田坂に
「姫様が出るような場所ではありません」と止められてしまった。
母や乳母と一緒にいるように言われていたのだが、どうしても隆景に会いたくて、
こっそり見るならいいだろうと、お城を冒険中に発見したこの武者隠しにやってき
たのだ。
(大きいお兄様は、お兄様の家臣なの?)
(ご親戚になられたのは、確かです。今日はその挨拶に来られたのですよ)
(でも。あの謀神がそれで満足するかねぇ)
(しっ、姫様の前だぞ)
大人達の言うことはあゆには半分くらいしか理解できない。
とにかく、あの大きいお兄様はあゆと一緒で小早川の人ということはわかった。
(まぁ、姫様。こんな所に)
あゆを探しに来た乳母が、武者隠しの通用扉を開ける。
(皆の邪魔をしてはなりませぬ。こちらにお出でなさいませ)
(だって、じいやが)
(さぁ)
乳母に引っ張りだされるようにしてあゆは、武者隠しから出た。
一連の動きは大方表に伝わっており、隆景は笑いをこらえるの苦労する。
「おてんばでしょ。いつもああして、城の中を動き回っているんだ」
「いえ、なんとのことやら」
「いいよ。隆景殿。伏せたままだと声が聞こえにくいんだ。顔を上げて」
繁平に許され、隆景は顔を上げる。
「あゆを見つけてくれたんだよね。ありがとう」
「いえ。一人で川べりにおりましたので心配で。何事もなくようございました」
「あゆは一人で城の外にも抜け出しちゃうから田坂の爺をいっつも心配させるんだ。
ぼくのせいでね。僕は目が見えないから」
繁平は、自分の目に自分で触れる。
そう、それが繁平がこの高山城になかなか帰城できなかった理由の一つでもあっ
た。この城を出てすぐ、繁平は眼病を患い目が見えなくなった。それは武士として
は致命的な出来事であり、今後のことを決定する上での重大な理由となった。
「あゆは、何も見えない僕に教えるためって、この城に来てから毎日あちこち走り
回ってるんだ」
「兄弟の仲が良く、何よりです」
「隆景殿には兄弟はいる?」
「今のところ、兄が2人います」
「そうか。そういえば、あゆが隆景殿を大きい兄と呼んでいるけど、今度からちゃ
んと隆景殿って呼ぶように言っておくね」
「兄と呼んでくださっても私は、構いませんよ」
「それはダメッ。あゆは僕の妹なの。お兄ちゃんは僕だけだから!」
繁平の年相応のヤキモチを見せられて、隆景はとうとう吹き出してしまう。
「竹原殿、無礼であろう」
「失礼、田坂殿。くっくく・・・っ、本当に仲が良くてうらやましいです」
あゆといい、繁平と言い、実に子供らしい反応だ。苦難の中、周囲の者に愛され
て育ってきたのだろう。
「繁平殿。私も竹原を継ぎ、こうして親戚になったのです。仲良くしましょう。
私は今後とも小早川のために尽くしていきますので」
「うん。よろしく隆景殿。あゆとも仲良くしてね」
「はい、もちろん」
隆景は、ふっと口元に笑みを浮かべる。
こちらの姫をないがしろにするつもりは毛頭無い。あれはこちらの掌中の珠なの
だから。
「隆景殿、あゆはまだ5才だからね」
突然かけられた繁平の言葉に、隆景はうっかりドキッとする。
「は、はぁ。いま、なんと・・・・・・?」
「ふふっ、正直な声になったね」
繁平はくすくす笑って席を立つと、田坂全慶に手を引かれながらゆっくりとした
足取りで去って行った。
***********
「久方ぶりにお会いしたが、やはり繁平様は幼いな」
「田坂全慶は横に張り付いているし、沼田を握っているのは田坂か。椋梨殿が憤る
はずだ」
竹原から着いてきた従者達は、見た目通りの事を言っているが、隆景は少し違っ
た。
(繁平殿、意外と侮れない人間なのかもしれないな)
隆景は、高山城本丸を出て山道を下りながら、先ほどの会談のことを思い返して
た。幼い割にしっかりしているが、田坂全慶がべったり張り付いていることから
てっきり田坂がいなければ何も出来ない人間かと思っていたのに、最後の最後で、
こちらを見透かしたかのような事を言われた。
目が見えていないのは本当のようだが、その分違うものを感じ取れるのかも知れ
ない。
門のあるところまで道を下ると、
「あっ、来た。大きいお兄様じゃない、隆景様ーーーーーー!!」
なぜかあゆ姫がいて、隆景達に向かって手を振っていた。
「あゆ姫、なぜここに。本丸にいたはずでは?」
「お兄様がね、ご挨拶してきて良いって言うから先に来て待ってたの」
あゆ姫はニコニコしながら、自分がとんでもないことを言っていることには気づ
いていない。
隆景達は繁平に挨拶してすぐに本丸を出た。あゆが繁平の許しを得てここに来た
のなら自分たちの後に本丸を出たことになる。子供の足でこの険しい山道を下るこ
とは難しいはずだし、自分たちの横を通り過ぎて下ってもいない。
なのに先に来ている。
繁平は言っていた。あゆはこの城全体を走り回っていると。
(武者隠しの存在を知っていたことといい、この姫も侮れないな)
隆景は、そのことをおくびにも出さずにあゆ姫に挨拶する。
「あゆ姫様、改めてご挨拶をしましょう。竹原当主の小早川隆景です」
「隆景様、私達はごしんせきだから、なかよしなの」
「ええ。仲良くしましょう、いつか竹原にも来てください。歓迎しますよ」
「うん」
あゆ姫はニッコリとして答える。その笑みは純粋そのもので、隆景の言葉の裏に
隠された意味など、全然わかっていない。
「隆景様もまた来てね」
「はい。いずれ」
隆景達は、あゆ姫に見送られて高山城を後にした。
「ばいばーーーーい!!」
一生懸命元気に手を振る幼い姫に、隆景の従者達も思わず笑みをこぼす。
「いやぁ、あの時お腹にいた子が、あんなに可愛らしい姫様になられていたとは。
今日はお供してきて良かったですよ」
従者の一人南市兵衛がほんわかとした気分になる。南家は竹原小早川の庶家で
親戚筋に当たる。沼田とも遠い親戚になるので、親戚のおじさんみたいな心境だ。
実は、父親の小早川正平が亡くなった時、あゆはまだ母親のお腹の中にいた。
ちょうどその頃竹原小早川の当主も亡くなっており、隆景の養子話と前後して、
もしお腹の子が男の子ならば竹原にという話も出ていたのだ。
残念ながら姫だったので隆景が養子となったのだが、遠くからながら無事生まれ
るか心配していたこともあり、あゆの元気に育っている姿を見てほっとしたのは
事実だった。
小早川家の一族は少ないし、なによりこの戦乱の世で子供が無事育つのは難しく、
だからこそ子供は愛おしいのだ。
「そうですなぁ。容姿も申し分ないですし、あれだけ元気ならいずれ本当に、竹原
にお迎えになってもよろしいのではないでしょうか」
日名内但馬も乗り気だ。
「お前達、気が早い。あゆ姫はまだ子供だ」
隆景は、繁平に釘を刺されただけに、話に乗せられないよう注意する。
「大内の大殿の意向もある。我々だけでどうこうの話ではないさ」
安芸国国人衆の婚姻も養子も命も、すべて別のところに握られ、決められる。
自分たちはただそれに付き従うだけ。そんな小さな存在なのだ。今は。
「とにかく、沼田のお二人は気に入ったよ。今言えるのはそれだけだ」
隆景がそう返事をすると、南と日名内は満足げに頷く。
今はそれでいいのだ。今は。
これが、小早川隆景とあゆ。のちに夫婦となる二人の出会いであった。