ジークフリートの部屋の浴室は大変なことになっていた。
石けんの泡があちこちに飛び散り、シャワーから出る湯が止めどなく流れ、
少年の悲鳴が絶え間なく響き渡る。
「ウギャギャ」
「こら、暴れるな」
シャンプーが目に入って痛がるフェンリルを押さえつけ、油で固まっている髪を
がしがしと洗う。六つの時に孤児になってから十年もの間野生生活していた
フェンリルの身体は汚れ放題で、外ならまだしも一歩暖かい部屋にはいると匂いが
ひどいのだ。
このたまりにたまった汚れをきれいに落とし取ろうと、ジークフリートは狭い浴室で
孤軍奮闘していた。
一度では落ちきれず、何度も洗って落としていく。
すっかりきれいになって浴室から出てきた時は二人とものぼせていた。
特にフェンリルは十年ぶりの風呂にのぼせ上がり、ぱたっと床に倒れる。
「もーヤダ。風呂なんか大っきらいだ」
ジークフリートが冷たい水が入ったコップをさして出すと奪うように取り、
一気に飲み干す。
少し顔から血の気が引き、回復したらしい。
「後は服だな。すぐに作らせるが、それまでは私の昔の服で我慢してくれ」
「まだなんかするのか!?」
もうヤダとおびえるフェンリルに、ジークフリートはくすくすと笑いながら
「なにもしないよ」といって安心させる。
と、ドアがノックされ、ハーゲン、シド、トールが入ってくる。
「よぉ、ジーク」
「頼まれた物持ってきましたよ。それから夕食も」
「おっ、なんだ。えらくきれいになったじゃないか」
ぞろぞろと入ってきた男達(内一人は巨人)に、フェンリルは警戒心をむき出しにして
牙をむく。
「フェンリル落ち着け。彼らはお前の仲間だ。これからお前は彼らと仲良くするんだ」
と言ってもすぐに仲良くなれるわけがない。
長年狼と暮らしてきたフェンリルならなおさらだ。
怯えが宿る目でじろじろと見つめる。
「ほら、これに着替えるんだ」
ジークフリートは、部屋に行く途中侍女に伝言して持ってきて貰った服を手渡す。
「着方解るか?解らないなら手伝うが」
「自分でできる」
ぱっと手から奪い取ると、フェンリルは一人着替えだす。手つきは危ういが、
一応覚えているらしい。崩れてはいるが着れている。
「私も着替える。先に食べててくれ。フェンリル、お前もだ」
「いらない。人間からもらった食い物なんて食えるか」
お前なに言ってと言うハーゲンに、ジークフリートは首を横に振る。
「そうか、なら好きにしろ」
さっき言ったとおりにと言って、着替えに行った。
部屋の隅で縮こまって座っているフェンリルを無視して四人は食事をする。
シドは気にするが、ジークフリートが放って置けと止める。
「人慣れしてないんだ。人間不信もあるらしいからな仕方がない」
「ですが」
「腹が減れば自然に手を付ける。なにも口に出すな」
意外に冷静なジークフリートに三人は顔を見合わせながらも、黙々と食事を続ける。
「なぁ、ジーク、傷の具合は・・・?」
ハーゲンがおそるおそる聞く。自分のせいでけがを負ったと思っているハーゲンは、
さっきから気になって仕方がなかった。
「血は完全に止まっているし、神経にも達していない。大丈夫だ」
「そっか・・・」
ハーゲンは少し顔をほっとさせる。
食事を終えると、ジークフリートは三人を見回し、自分はこれからまだ用があることを
告げる。
「フェンリルをここには置いておけない。だが、一人にもしておけん」
「では俺が預かろうか?」
トールが名乗りを上げる。
「子供の扱いには慣れているぞ」
「ありがとう。だがフェンリルが抱える事情は特殊だからな・・・」
ジークフリートはフェンリルの方へ向いて、
「フェンリル。今夜はトールのところに泊まるか?」
「俺は森に帰る」
フェンリルはすくと立ち上がる。
「人の側なんか嫌だ。森がいい」
「それは困る。お前はもうただの野生児じゃない。アリオトの神闘士だ。ヒルダ様の
お側におらねば、いざというときどうする」
ぐっとフェンリルの顔が詰まる。
「フェンリル家を再興させたいんだろう?ならば、ここに居るんだ」
「・・・・・・でも人の側は嫌だ」
そう言うフェンリルの顔にジークフリートは孤独を見る。人に見捨てられた十年間は、
彼に深い孤独と飢え、人に対する不信感を与えた。
フェンリル家が断絶する事件に捜査解決する側として関わったジークフリートは責任を
感じる。
「そうか、わかった」
人を嫌うフェンリルが今こうして人の側で居ること自体が奇跡なのだ。その奇跡を
こちらの都合で閉ざしてはならない。
「シド、狼たちをどこへやった」
いきなり聞かれシドは一瞬詰まるが、どもりながらも移した場所を離す。
「え、えーっと。ワルハラの森へ行く通用門近くの馬小屋です。今あそこに馬は居ません
から」
「そうか。では、その近くに部屋を一つ用意させよう。そこをフェンリルの部屋とする」
ジークフリートは立ち上がるとフェンリルの側へ行き、おいでと手を差し出す。
フェンリルはびくっとし壁に背中をべたっとくっつけるが、差し出された手と顔を
交互に見て、ゆっくりと立ち上がる。
「ついておいで」
一人と一匹が後に従う。
「女官長に連絡して部屋を整えさせてくれ。なるべく外への出入り口付近の部屋がいい」
「わかりました」
後を頼むと言い残して、部屋を出た。
シドに教えられたとおり、馬小屋では馬の代わりに狼が占拠し寝そべっていた。
狼たちはフェンリルの気配をかぎつけて騒ぎ出す。
「おまえたち・・・」
フェンリルの顔が少しほぐれる。やはり彼らの側がいいのだ。
「窮屈だろうが、彼らにはここにいて貰う。お前も解っているだろうが、人は狼を
恐れる。いつその牙に襲われるかとおびえて居るんだ。その狼が人の居住区にいるのに
いい顔をはしない。近いうちに追い出せと要望が来るだろう」
「そんな」
「だからお前が監督するんだ」
ジークフリートは、人の地で獣が暮らすために守らなければならない決まりを教える。
「彼らが人の目に触れないように、人を襲わないように。お前は彼らを連れてきた者と
しての責任を負わなければならない」
「・・・・・・・・・・・」
「でも、お前は自由に会っていいんだぞフェンリル。近くに部屋も用意させた。お前は
いつでも彼らに会いに行ける。だが、約束を守れらないなら彼らは森へ放つしかない。
その時はお前は一緒には行けない。お前は神闘士としての責務があるからな」
「そっ・・・・」
そんな・・・とフェンリルは下を向く。狼とフェンリル家再興の夢との間で心が
揺れる。
どちらも大切なのだ。どちらかは選べない。
ジークフリートはくしゃりとフェンリルの髪をなで、腰を曲げ視線を彼に合わす。
「約束しろフェンリル。神闘士としてここにいると。狼たちを監督すると」
「・・・・・・・・本当に」
フェンリルはゆっくりと顔を上げる。その目には涙がにじんでいた。
「約束護ったら、こいつら出さないか?」
「約束する」
自分は、たくさんの嘘をついている。
けれど、この約束は守りたい。
嘘にしたくない。絶対に。
「わかった」
フェンリルはぐいっと腕で目をぬぐう。
「約束する。絶対人を襲わせない」
「ああ、約束だ」
ぽんぽんと頭を叩く。足下でギングが、狼たちがきゅぅんと鳴く。
「冷えてきたな。中に入ろう。部屋も用意されているだろう」
「うん」
狼たちがもの悲しそうに鳴いて見送った。
その後、狼を何とかして欲しいという苦情が出たが、ジークフリートは約束を守り、
彼らは人を襲わないと言い聞かせ、ヒルダの許しも得ているとして対処した。
フェンリルも約束を守り、許された場所以外に狼たちを連れ歩くことはなく、人を
襲わないよう監督した。
ところで、この約束で一つの変化が見られた。
「おーい、ジーク」
馬小屋にいる狼たちの様子を見に来たジークフリートの元へ、アリオトの神闘衣を着た
フェンリルとギングが駆け寄ってくる。
「どうした?」
「さっきさ、ハーゲンと手合わせしてたんだ」
「ほう、勝てたか?」
だが、フェンリルはばつの悪そうな顔をする。どうやら負けたらしい。くすくすと笑う
とフェンリルはむきになって言い返す。
「あんなのまぐれだ。俺の方が強い。狼の爪は無敵だ」
「そうか」
「俺はこの爪と牙でフェンリル家を再興するんだ! 行くぞ、ギング !!」
それだけ言うとフェンリルは再び白く染まる森へとかけていく。
フェンリルはジークフリートには心を寄せるようになった。そして彼を通して他も
神闘士にも近づくようにまでなる。
開き始めたフェンリルの心。
だから、ジークフリートの心は重くなる。
フェンリルはきっと完全に開く前に逝ってしまうから。
結局はなにも変わらないまま逝くことになる少年のことを考えて、自分の罪深さを
思い知るのだった。