その日、私はなぜだか判らないが一人で出歩きたくなったのだ。
普段からすれば、私は絶対に一人で表を歩くことなど許されなかったのだが、その日は、たまたま供の者が周りに一人もいなくて、よい天気で、庭が新緑の季節を迎え美しくて、私はふらふらと誘われるように一人で庭を歩いたのだ。
途中、蝶が私の目の前を横切った。
私の周りをひらひらと飛び、まるで私を導くかのようにある方向へと飛んでいった。
私は、その蝶の後をついて行った。
そして出会ったのだ。藤の木の下で眠る金髪の男に。
私が生まれる何十年も前から我が国はエウロテと同盟を結んでいたため、エウロテ人と婚姻する者も多く、金色の髪など見慣れていた。
だが、そこで眠っていた男の容貌は、エウロテ人のものではなかった。
つい先日まで、敵国人と教えられてきたサクソン人そのものだった。
だが、私は少しも怖いとは思わなかった。
ただただ不思議だった。
そこは、大極殿。表と帝が暮らす裏とを繫ぐ庭。
ここは、我が国の者でさえ許された者しか出入りすることはできない禁制の地なのだ。
そこに異国の者が、それも敵国人の者がいる。
しかも我が国の殿上装束を身につけてだ。
これで事情を知らぬ者で、不思議に思わない者はいないだろう。
私はおそるおそる男に近づいた。
男はよく眠っていて、私が近づいても起きる気配さえ見せなかった。
鼻が高く、堀が深い精悍な顔立ちの私の父親くらいの年の男だった。
私は、恐る恐る手を伸ばして男に触れようとしたとき、カッと男の眼が突然見開いた。
私はわっと叫び声を上げて尻餅をついた。
金色の瞳が私をじっと見つめていた。
金色に光る瞳など私は見たことがなかった。
あれは獣の目だったのだと思う。
後に知ったことだが、その男は一部の者から『ライカンスロープ』と呼ばれていたらしい。
男と私は互いに見合って、ふと男の目が笑った。
「驚かせちまったか。悪かったな」
それは我が国の言葉だった。
「そなたは我が国お言葉が話せるのか?」
「まぁな、お前より長くこの国にいるし」
当時の私よりということは、西方連合と戦争をし始めた頃からこの国にいると言うことになる。
そんな昔から、西方連合の者が暮らしていたなんて知らなかった私は驚いてしまった。
「へぇ、俺を知らないのか?結構有名なんだけどな」
ちょっと傷ついたというように言う男だが、終始クスクスと笑っていた。
「なぜ、そなたはこんなところで寝ておったのか?ここは表と裏を繫ぐ庭ぞ。我ら以外の他の者は滅多に入れぬ庭になぜそなたはおるのだ?」
「ご主人様に付いてきたんだよ。そしたらこれが咲いてるのに気がついてさ」
男は上を見上げて指さした。
見上げてみると、そこには藤の花が盛りを迎え、薄紫色の花の房を垂らし、ゆらゆらと揺れていた。
「俺と主はここで出会ったんだ」
「ここで?」
「そう、もう20年以上前になる」
男の話が正しければ、先帝が崩御された時期と重なる。そのとき大極殿が他国の者にも開放され、何人か招かれたと記録には残っている。
「花をとってくれと言われたんだ」
「花を?」
「そうあの藤の花をな・・・」
懐かしげに語る男はいつかの日を思い出しているようだった。
そんな男の顔を見て、私は急にその藤の花が欲しくなった。
私は男に向かっていった。
「手を」
私は男に向かって手を差し出した。
「私をあの藤も花の元へ連れて行け」
男がえっと言う顔をした。金色の眼が大きく見開いていた。心底驚いているという顔だった。男はしばし私を見て、くっと笑った。
「わかった」
そうして、男は私を抱き上げ、私の手が届くように私を藤の花の下へ連れて行った。
私と男は手を伸ばし、共に藤の花を手折った。
私を下へ降ろすと男は手折った藤の花を私の髢にかざしてくれた。
金の瞳が柔らかく微笑む。
獣の瞳などではなかった。
柔らかな春の日差しの色の瞳だった。
「きれいな目だ・・・」
本当にきれいだった。
昼間は光に照らされてきらきらと光り、夜はきっと月のように輝くだろう。
「そなた私に仕えぬか?」
私は迷わず口にしていた。
男の目がまたも見開き、今度は盛大に声を立てて笑った。
「おお、もう、ほんとに・・・」
男はおかしくてたまらないというように腹を抱えながら、必死に笑うのやめようとしていた。
「タキにそっくりだぜ。その高貴さも、その傲慢さも」
「タキ?」
「俺の主の名前さ」
男はまだ笑いをかみ殺せていないながらも、私に向き直り礼儀をとった。
「残念だが、もう俺はすでにタキの騎士だ。他の者のモノにはなれない」
「そうなのか?」
「そう、俺はもう捕まっちまった。逃れることはできないし、逃れるつもりもない」
男は言った。
「俺はタキのモノだ」
「・・・・・そうか」
そうまで言われれば諦めざるを得ない。本人が厭がっているのに、地位を誇示して無理強いはしてはいけないと教えられてきた。
でも、本当に、心の底から本当に残念に思った。
私があまりにもがっかりしていたせいか、男はそっと私の頭を撫でてくれた。
「そんな顔をするな。お前にもきっと見つかるさ。お前のためだけにすべてを捧げるモノが」
「そうか?」
「そうだ。知ってるか?俺の国にはこの藤の花によく似た花があるんだ、ラバーナムといってな、こっちの言葉で黄色藤と書く。その花には古い言い伝えがあるんだ」
「どんな?」
「その花の下で出会った二人は永遠に結ばれる」
だから「金の鎖(ゴールデンチェイン)」とも呼ばれるのだと男は言った。
「俺はもうすでに結ばれているからな。お前と結びつくことはないけれど、きっと現れるさ。逃すなよ。それはきっとお前にすべてを捧げる奴だから」
「・・・・・・うん」
そのとき、誰かを呼んでいる声がした。
「クラウスー。どこだー」
「おっと、我が主のお呼びだ」
じゃあな、男は私の頭をもう一度撫でて行ってしまった。
その後、慌てふためきながら私を探しに来た者たちの手により、私は私の御殿へと戻った。
私は乳母からサクソン人の騎士のことを聞いた。
それはレイゼン家当主タキ・レイゼンの騎士のクラウス・ファン・ヴォルフシュタットのことでしょうと乳母は言った。
彼は、敵国人ながらもこの国ために尽力したこの国の英雄の一人であると言われた。
「御上はクラウス様のことをよくご存じですよ。戦争が終わったばかりの頃、クラウス様に護衛をお頼みになることがしばしばございましたから」
「父上が?」
なるほど、それならばあのときクラウスが言った言葉が納得できる。私は我が国の
恩人を知らなかったのだ。
(もっといろんなことを知らねば・・・)
自分の不勉強さを反省しつつ、また会えるだろうかと思った。
今度会ったときは、やがて我が国を次ぐ者として、礼を述べよう。
(そのとき、私も私の騎士を連れて行けたらいいな)
クラウスのいつか必ず出会えるという言葉は不思議と私の胸にしみた。
もしそうなら出会いたい。
もし出会えたら、クラウスに是非会わせてみたい・・・・。
しかし、それが現実となることはなかった。
その藤の木の下で会った日から1年後、彼は唯一無二の主を置いてこの世を去った。
あとがき
数年前に書いたのですが、どんな風に書こうとしたのかよく思い出せない。
たぶん、クラウスの死にネタで三部作を書こうとしたんだと思います。