騎士とは、国を捨て、血族を捨て、ありとあらゆる権利を放棄して、ただ一人と決めた主の所有物となる。
その誓いを破ることは、決して許されない。
レイゼン領領主タキ・レイゼンの騎士クラウスは、まだ装甲列車制圧作戦時に負った傷が癒えず、いまだ、自室で治療の最中であった。
直前に受けた拷問の傷が癒えないまま、薬を使って無理に身体を動かし、列車に突入、負傷した仲間を守りながらの戦闘の果てに心臓近くに至近距離で銃弾を3発も受けたあげく、爆薬で吹き飛ばされ、冬の凍り付く川の水に長時間つかっり、一時息も脈も止まりそのまま死んでもおかしくはなかったが、主であるタキに呼び止められ、奇跡的に一命を取り留めた。
しかし、いつ急変しかねないほどの重傷であることは変わりなく、ほぼ24時間体制で医師が付き添い治療を受けていた。
クラウスは体力の限界と薬が効いているせいか、食事等の自然行為以外ではほとんど目を覚ますことはなく、深い眠りについている。
タキはそんなクラウスを毎日見舞っていた。
「少しずつですが、回復に向かっています。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
スグリは、クラウスに付き添っているタキに向かってそう話すが、タキは耳に届いていないの
か言葉も返さない。
スグリはそんなタキの様子に、やれやれとため息を吐いた。
クラウスが救出されて以来、ずっとこんな様子であった。
クラウスの様子は毎日見に来ているものの、領主として、師団長としての仕事は決しておろそかにせず、平静を装い、普段どおりに振る舞ってはいる。
(しかしだ・・・・)
無理矢理に手折られ、傷つけられ、死に値する屈辱を受けたというのに、なぜこうも求めるのか。
幼い頃からタキを見てきたスグリには判る。
タキは明らかに弱っていた。
クラウスから受けた傷はすでに癒えている。
なのにタキは傷ついていた。心がだ。
エウロテの件では上層部に翻弄されたとはいえ、タキは上層部に屈しない強い心の持ち主だ。必ず乗り切る。
(なのになぜ、こんな男のために心を乱すのか)
身のうちに狂気を孕むこの男をタキは求め続けている。
どれほど傷つけられ、屈辱を受けても、その男を他の者に傷つけられることを、奪われることを許さない。
まるでクラウスがいなければ生きていけないとでも言うように。
(やはり危険だな、この男)
だが、もうどうすることもできない。
スグリは見てしまった。
クラウスを奪われたと思ったタキの行動を。
そのとき、この部屋のドアがノックされた。
「師団長はこちらにおいででしょうか?」
「いる。どうした?」
「総司令部より入電が入っております」
「すぐ行く」
タキはすぐさま立ち上がり、傍らに置いてあった太刀に手をやる。
「スグリ、クラウスを頼む」
その言葉を残してタキは部屋を出て行った。
その横顔は、師団長のものであった。
またもドアがノックされた。
「だれだ?」
「あの、アズサです」
スグリはすぐに向かいドアを開ける。そこには、大輪の薔薇の花束をもったアズサの姿があった。
「アズサ少尉。どうしたんだ?」
「あの、大尉の様子はいかがでしょうか」
アズサの言葉にスグリはしばしその顔を眺め、入れとアズサを室内に通した。
アズサは、きょろっと室内を見回してベットで寝ているクラウスを目にするとすぐにその傍に静かに近づく。
「大尉・・・」
アズサは、眠るクラウスに恐る恐る触れる。
「そんな顔しなくていい」
悲しげな顔のアズサに、スグリはさらりとした口調で告げる。
「傷が傷だからな。遅いが、回復には向かっている」
「はい・・・・」
あ、とアズサはスグリにもってきた薔薇の花束を差し出す。
「これ飾ってください。大尉は薔薇の花がお好きですから」
スグリは無言でそれを受け取とる。
レイゼンへ来て、意外に思われたのがクラウスが薔薇の花が好きだったことだ。
薔薇はレイゼンの紋章であるため、屋敷内にはバラ園が設けられている。
そこで朝方に薔薇を眺めているクラウスの姿が、何人かに目撃されていた。
「それより足の具合はどうだ。ここまでは自分の足で歩いてきたのか?」
「はい、おかげさまで」
クラウスと共に列車に突入し、ベルクートとの戦闘で腕と足を負傷し、冷たい川の水にさらされていたもの、傷自体は幸いにも致命傷には至っておらず、多少肺炎を起こし少し前までクラウスと同じくベットから動けなかったが、回復は早かった。
足も、リハビリで以前と変わりなく動けるようになった。
「ならよかった」
スグリは、花瓶に薔薇の花を生けながら口にした。
「ムラクモの無線手は、お前でないとつとまらないからな」
「スグリ少尉」
「ダテやモリヤ、タキ様も同じ思いだ」
アズサは、クラウスと共に出撃する前のダテの言葉を思い出す。
『ムラクモの無線手はお前しかいねぇんだよ』
『お前がいないと戦えねぇんだ』
「いえ・・・」
アズサは言葉をかみ殺した。
「俺はだめです。軍人として失格だ」
「アズサ少尉?」
スグリは目を開いてアズサを見る。
アズサは、クラウスの眠るベットに伏すように顔をしたに背けながら、押し殺した声で告白する。
「あのとき、自分は大丈夫だと思っていました。頼りないかもしれないけど、僕だって軍人です。タキ様を守ろうって、ダテやモリヤと誓い合っていました。」
物心ついたときから乳母子として、タキと一緒に育ってきた。いつかタキの一番の家臣となり、共に国を率い守っていくのだと、そう教えられ育ってきた。
そのつもりで元服を迎えると軍に入隊し、正規の軍事訓練だって受けてきたのだ。
「でも、全然だめだったんです。あのとき、一人で飛び移ると言った大尉に見くびられたくなくてついて行ったけど、僕は足手まといにしかならなかった」
飛び移っても着地に失敗し、クラウスに足を掴んでもらわなければ、そのまま走行する列車から落下するところだった。
列車での戦いもクラウスは熟知し、前の車両に前進も、ほぼクラウスがリードしてくれた。
「ベルクートとの戦闘も、僕がへまをしなければもっと大尉は自由に戦えたんです」
「あの男は、あの時肩に怪我を負っていたんだぞ。結果はわからん」
「いいえ、きっと勝っていた。大尉は強いです。とても、とても強い・・・」
初めて間近に見た。クラウス・フォン・ヴォルフシュタットという男の戦いを。
出撃前、侍従長が自分にクラウスを作戦中に始末するように言った。
でも、あれは侍従長がクラウスという男を知らないから言えたのだろう。
戦闘中のクラウスは人ではなかった。
あれは獣だ。
本能のままに動き、戦い、相手を喰らう金の狼。
ベルクートも獣人(ライカンスロープ)と呼んでいた。
自分は、足下にすら及ばない。
「アズサ少尉」
スグリにぽんと肩をたたかれ、アズサははっと意識を浮上させる。
「あの列車の中の惨事を見れば、私にも何があったかはだいたいの見当は付く。だが、あまり自分を追い詰めるな。撃たれたクラウスをつれて脱出したのはお前だ。お前がいなければクラウスは助からなかった」
「大尉が、かばってくれたからですよ」
ベルクートに足と腕を撃たれ、動けない自分をクラウスはずっとかばってくれた。
置いていって欲しいと言ったのに、クラウスは置いていかなかった。
それどころか言ったのだ。奪わせはしないと
『還るぞ。タキが待っている』
戦場で諦めたかけた者に待っているのは死だけだ。
その自分にクラウスは勇気をくれた。
「僕がこうして生きてここにいられるのは、本当に大尉のおかげなんです。感謝してもしきたりません」
アズサの心の奥底からの言葉に、もはやスグリはかける言葉が見つからなかった。
またも部屋のドアがノックされた。
「スグリ少尉、タキ様がお呼びです」
「・・・・わかった。代わりの医師を呼んでくれ」
ふぅとため息をつき、椅子の背もたれに上着に手をかけ、袖を通すスグリにアズサは告げた。
「あっ、僕が見てますから」
アズサの言葉にぴくっとスグリのこめかみが動く。
「いや、代わりの医師がすぐ来る」
「それまでここにいます」
アズサのはっきりした声に、スグリは何か言いたげだったが、まるで諦めたかのように「頼む」と小さく告げて部屋から出て行った。
スグリが出て行き、部屋にはアズサとクラウスの二人だけになる。
廊下にも兵はほとんどおらす、クラウスの寝息だけがかすかに聞こえてきた。
傍のテーブルの上に置かれた花瓶の薔薇のほのかな芳香が鼻をくすぐる。
「大尉・・・・」
アズサは、クラウスの顔を見つめる。
薬がよく効いて痛みは感じていないのか、その顔は苦痛にゆがんでもいない。かといって健やかにという感じでもない。ただ、眠りをむさぼっていると言うようだ。
「僕のせいで・・・」
アズサは思わず、表に出ている腕をとった。
何という太くてたくましい腕だろう、
包帯だらけの腕は、それでも包帯の下の筋肉のたくましさが判る。
あのときクラウスはこの腕で自分を抱えながら、ベルクートに応戦したのだ。
手に手を重ねてみた。
自分のよりも二回りは大きいクラウスの手の指先には、かすかに裂傷が残っている。
思わずアズサはその傷に口づけた。
自分のせいで負った傷。
痛々しく、なぜか愛おしかった。
指がびくりと動いて、きゅと手を握りかえされる。
「大尉!?」
アズサはばっと身体を乗り上げ、クラウスの顔を見つめる。
うっ・・・と声を吐いて、クラウスの切れの長い眼がゆっくりと開かれる。金の瞳が空を眺めた。
「大尉!ヴォルフシュタット大尉!?」
アズサは、しきりにクラウスに話しかける。しかしまだ意識がうつろなのか、声を返さない。
「判りますか?僕です。アズサです」
先ほどより大きな声でささやいてみるが、クラウスの金の瞳は相変わらずうつろなままでアズサの顔見つめた。
アズサは、己の顔をクラウスの顔の至近距離まで近づけ、クラウスの手をぎゅっと握り話しかけ続ける。
クラウスは、声を出さなかった。
そして、アズサの顔を見て、ふと微笑んだ。
それは、泣く子供に向かって心配ないというような。
かつて、ルッケンヴァルデでタキだけに見せていた、柔らかな笑み。
今、ここにタキはいない。
どくんっとアズサは胸の奥の心臓が飛び跳ねるのを感じた。
どくんどくんと大きく鼓を打つ音が、止まらない。
ふと、クラウスの包帯だらけの左腕がアズサの首の後ろに回った。
クラウスはゆっくりとアズサの顔を己の顔の横に引きつけた。
「た、大尉!?」
アズサは、慌て、急いで起き上がろうとした。
けれど、包帯だらけの太い腕は重く、どけることができない。
されるがままにアズサは、クラウスの身体に添うように寝転がる。
「あ・・・・・」
息ができなかった。
クラウスは愛しげに額をこすりつけてくる。
髪に肌に触れる愛おしげな息づかいが、アズサの鼓の音をさらに大きく早くさせる。
香ってくる薔薇の香りがむせかえるようだった。
医者はまだ来ない。
アズサはぎゅっと身を硬くした。
頬が痛いほど熱く、胸の鼓の音が鼓膜につんざくように鳴り響いていた。
クラウスの息は静かに落ち着き安らかなものになってくる。
首に回された腕から力がだんだんと落ちていく。
また、眠りに落ちていったようだ。
「・・・・・・・・・・・・タキ」
クラウスが間際につぶやいた言葉は、鼓の音にかき消され、アズサの耳に届くことはなかった。